男は失われた都の追憶に倦み疲れ、重く息をつきペンを置いた。窓覆いの外は未だ明けぬ夜、血と病苦に呪われた獣狩りの夜が続いているはずだった。疑いようもなく獣は数を増し、夜は数多の血を吸い、回を追うごとに長くなっている。銃声の残響が燭台の光を震わせ、彼は錯覚に瞬く灯火の揺れに自らの憂いを重ねた。流された無辜の民の血は、やがて真実を暴きたてるだろう。我々の罪過がもたらした破滅、軽んじた師の警句が好奇の霧に欺かれ、愚かな鼠は喪失によりその身の矮小さを思い知る。男の視線は幾度となく眺めた空席に注がれた。いつかそこに友が座り、人の意志が大いなる叡智へ至る日のことを語ったものだ。我々は籠の内から見上げた格子のありさまを、宇宙の全てだと信じて疑わなかった。闇ばかりがわだかまる座面の上に描き出された空想は瞼の疼きをもたらして、男はまた我が手に鈍い呼気を吹きかけ、瞑目した。実らぬ果実を求めた試みの代償は大きい。行く手から拭い去られた全ての事象に苛まれるのは煤の舞い踊る晩にあって珍しいことではなかったが、例外なく、そして年月を経てなお衰えず彼の精神を摩耗させた。
しかしほどなくして彼を、自罰的な物思いから引き上げるものがあった。大扉の軋みのあと、にわかに階下が騒がしくなった。彼は背もたれから我が身を引き剥がすようにして立ち上がり(纏う権威の重さときたら!)、喧騒の源を定めに向かった。煩わしい長衣の裾が石段の縁を撫でるごとに、くぐもった人々の囁きは形を為して意味を伝えるようになった。どうやら狩人が一人、傷を負って運び込まれたらしい。男の胸に哀愁と憐憫の情が沸いた。夜毎の眠りに安らがず、忌まわしい穢れを浴びてなお躊躇わず牙を立てる猟犬が、最後に憩うのは死の膝元なのだ。彼は天井を透かし、青い月の面を仰ぎたくなった。囚われ人よ、慈悲をたれたまえ! 無意味な感傷を引きずり下ろすように、彼は扉に手をかけた。普段は施しに使われている部屋であり、夜明けには──あるいは、夜のうちに──傷ついた狩人の処置に当てられている場所だった。
急ごしらえの診療所では、戸口に教区長の姿を認めた医療者の困惑が小波のように広がり、次の瞬きを待たず隠された。彼らが取り囲む粗末な寝台に寝かされた男の着衣は鮮血に濡れ、脇腹に受けた一際大きな傷は血の医療の奇跡に塞がりかけてはいたが、いつまた開くとも知れなかった。
手袋を血染めにした一人が場違いな訪問者に歩み寄り、急いた礼をひとつ捧げた。
「ローレンス様、失礼ながらこのような場にお越しになるのは」彼女は相対する人のまなざしに怯み、一拍の沈黙のあと早口に言葉を継いだ。「狩人の一人です。名をルドウイークと」
「あれは」
「彼が抱えてきたのです。既に息がありませんでしたが、外に捨ておくわけにもいきませんので、あのように……」
ローレンスは部屋の隅を眺めたまま、ただ頷きを返事とした。ずたずたになったぼろ布のような死体が、覆いもかけられず横たわっている。この男の生命を引き裂いたのはさぞや無慈悲な爪だったことだろう、そして獣は同じ爪で、あの男の背に無惨な創を刻んだのだ。とうに終わった命を繋ぐために重い肉塊を守りながら進む狩人の姿は、愚かしくも美しい画となってローレンスの脳裏へ鮮やかに像を結んだ。今や怪我人に尽くすべき手もなく、訪問者へ応対した女の後ろでは時が彼らの努力を徒労に変えようとしていた。
「彼は助からないようだね」この一言には誤解を招きかねない響きがあった。「高潔な行いだ。その報酬がこれとは」
「由なきことです」と死にかけの狩人と医療者の無力な奮闘を一言に纏めると、女医は顔をこわばらせ、招かれぬ客人へ向き直った。「どうかお引き取りください。忌まわしい死をこれ以上お目にかけるわけには参りません。彼を追ってきた獣は門の外で斃れておりました、この深手でよくぞ退けたものと思います。せめて御前に骸を晒す不名誉からは救ってやりたいのです」
懇願を受けた男は単なる礼儀として熟慮する様子を見せた。しかし女医の使命感と自負、そしてある種の自己陶酔に練り上げられた台詞は、ほとんどが聞き流されていた。ありふれた悲劇になりつつあるこの一幕をあるがままに終わらせることを、彼の気紛れが許さなかったのである。
「しばらくの間、彼と二人きりにしてくれないだろうか」
「なぜです」と不意を突かれた医療者の戸惑いは敬意で繕いきれず溢れた。「彼は血を失いすぎていて……」
「では尚更のこと、私が少しばかり余計な手を加えたところで君に迷惑はかけなかろう。それとも、教区長として命じなければならないかな」
嫌味な言い方をしたものだ、とローレンスは内心、己を笑いたくなった。微笑と柔らかな声色は平生の調子と全く変わらず、いらだちや威圧感を滲ませることなど微塵もなかったが、最後の一言は女の決意を容易に砕いてしまい、万事が速やかに望み通りのものとなった。医療者たちが片付けもそこそこに引き上げていくと、ただ傷ついた狩人と、彼の終止符を繰り延べようとしたあらゆる施術の跡が脱け殻のように残された。後者に属する輸血液の瓶は今繋がれている分だけが暗赤色の命の水を内に湛え、そこから滑稽なほど頼りなげに見える細い管が、浅い息をする怪我人の腕へ繋がっている。ローレンスは無用に生地を重ねた装束の袖を苦労して捲ると、点滴の一端を力不足の血を容れた小瓶から外し、淀みない所作で自らの腕へ植えた。そして我が身を巡っていた血が音もなく注がれていくのをじっと眺めていた彼は、つい先刻まで生死の境を越えかけていた肉体がにわかに色を取り戻し、上下する胸の動きがより穏やかで規則的なものになるのを認め、ひとり笑いに顔を歪めた。愚かな好奇のもたらした呪いの効能は、なんと目覚ましいものか! この男、ルドウイークなる狩人は、次に瞼を開くときには祝福の霧のように朝靄を味わうことだろう、受け入れた血の悍ましさもしらずに。
ローレンスは患者の枕元へ屈み込み、乱れたままの髪を額や瞼の上から除けてやった。乾いて褪せた血糊に化粧われた男の顔立ちは美しく、高い頬骨と鼻梁の堅い稜線は彫刻家ならばこれに倣い石に刻むであろうもの、高潔と朴訥の印象を睦み合わせる豊かな陰影を伴って偽りの救いに安らいでいる。やがて視線は首筋を滑り、惨たらしい傷口の上に留まった。装束は処置のため前を開かれ、彼の好奇心を妨げなかった。いかな聖女の施しにも癒すことの能わなかった死の刻印をなぞり、ローレンスの呼吸は不適切な悦びに震えた。あらわにされた肌の上、気の赴くままに指を滑らせる。青膨れの学者風情には到底備わらぬ厚くしなやかな筋肉の凹凸は、かつて親しんだものにとてもよく似ていた。
呻き声を耳にし、背徳に浸る聖者は指先を男の下腹部から離した。見れば怪我人は瞼をうすく開き、何かを探すように頭を巡らせようと頑張っているところだった。
「動いてはいけない、君の命はまだ霧のごとく曖昧で、いつまた散り失せてしまってもおかしくはないのだから」
「ああ……」男は乾いた声をしぼり出した。「彼は、どうなった」
「君が運んできた友人のことを言っているのかね? 彼ならばとうに死んだよ。無駄とは言うまい、骸でも残れば慰めになるだろう。弔いには必要なものだ」
狩人の面を哀しみが覆った。喪失の痛みはローレンスに同じ感傷を呼び起こし、堕落した愉悦がその胸を疼かせた。彼は衣が血で汚れるのも意に介さず、子を憐れむ母のように怪我人に身を沿わせこう囁いた。
「ルドウイーク、案ずることはない。彼は今や永遠の眠りに憩い、恐ろしい獣の牙に怯えることもない。そして君は生かされたのだ……」
相手からは形を為さぬうわごとが返り、沈黙だけが残された。負傷と疲労に麻酔され、再び眠りに落ちた様子だった。
ローレンスは聖職者ではない。すべての聖なるものは邪悪と罪業の隠れ蓑で、ただ人の手に余る知識を追い求めていただけだ。信仰は無知な民草を欺くに都合のいい方便であり、儀礼的な手順や豪奢な装飾は容易く人の眼を曇らせる。自室に戻った彼は着ているものを寛げると、肘掛け椅子へ身を沈めた。そして傷ついた英雄の肉体を思い描き、自らを慰めるのに使った。