施し

 ルドウイークはその日の始まりを、聖堂の片隅にある浴場で過ごした。街で浴びた種々の汚物はぬるい湯に流され、清潔さと人間的な営みの両方の感じが彼を快くした。呪わしい夜の間は狩人として屠った獣の血脂に塗れるとて意に介さぬ男であっても、やはり曙光の元に我が身を省みれば幾分ぞっとする程度の常識は持ち合わせているものだ。もとは物置かなにかだったであろう部屋の隅に木肌のささくれた簡素な浴槽が置いてあるだけであっても、教会の人間がこうして身を清める場を用意してくれるのは心底ありがたいことだった。こと異邦人にあっては、余所者を嫌う市井の人々から少なくとも穢れの印象くらいは除いておかねば具合が悪い。同僚の狩人の多くは何を投げつけられようとあまり意に介さないようだったが、ルドウイークはそうではなかった。彼は剣の柄に荒らされた掌に水をすくった。呼吸に合わせて水面に薄く映る天井や彼自身の頭の先が揺れて乱れた。ひとり笑いに息を漏らし、即席の鏡を捨ててまた浴槽の縁に頭を預けると、今度は肺の底から深いため息をつく。髪に染みついた胸のむかつくような臭いが取れるまでに、三たび湯を替えねばならなかった。穢れを残す不愉快は他人に裸身を晒す羞恥に勝り、当番になった老人の嫌味と引き換えに、手指や顔の脂ぎった感触は薄れていった。しばらく男は脱力し、夜の終わりを噛みしめるように、肌に当たる小波を楽しんだ。
 湯浴みを済ませた彼は、その足で聖堂の上層へ向かった。夜じゅう気を張っていただけに眠気もそれ相応、すぐにでも自宅に戻りたいところだったが、身支度を手伝いに現れた別の雑務係は伝言係も兼ねていて、教区長直々のお呼び出しには彼も従うよりほかなかったのだ。寝不足で歩む一歩の重みに加え、これから対面する相手そのものが疲れた狩人を憂鬱にした。ルドウイークは教区長という人間があまり得意ではなかった。嫌悪するというのではなくむしろその逆で、人づてに聞く彼の人となりは好ましく、いかにも聖職者らしい清らかな顔かたちにも密かに慕わしささえ覚えるほどだったが、それも遠くあればこそ、一度なにかの折に労いに訪れた彼と言葉を交わした際には、ただ奇妙な気まずさばかりがあって、まともに目を合わせることすらためらわれるほどだった。まるで自分が場違いな身の程知らずであるように感じ、口を開くたび、なにか途方もなく愚かなことをしでかしたような気分にさせられるのだ……

「ルドウイーク、よく来てくれた」
 狩人が彫刻の施された扉を押すと、穏やかな声が部屋の向かいから投げかけられた。教区長ローレンスは形のいい唇を微笑みのかたちにし、書物や石盤やその他のあらゆる古ぶるしいものたちが雑多に積み重なった大机の向こうから、客人を歓迎した。ルドウイークは会話に差し障りない距離までたどりつくと、並より高い身丈をできるだけ縮めるように一礼し、俯きがちの姿勢のままで相手の次の一言を待った。しかし気休めに数えた床板の木目が十を超えても沈黙は続いた。しびれを切らした彼が獣狩りの疲労を理由にどうにか脱け出せないかと考えはじめてからようやく、意味のある音が重く漂う空気を揺らした。衣擦れだ。幾重にも重なり裾を引きずる長衣のたてる、まるで馴染みのない音が近づくにつれ、ルドウイークは自然と身を硬くした。布地の摩擦がこれほどはっきりと耳を騒がすというのに、いくらも足音のしないのがひどく不気味に思われたのだ。だが彼は描きつつあった幽鬼の馬鹿馬鹿しい姿を脳裏から退け、辛抱強くそのままの姿勢を保った。
「顔を上げなさい、まるで鞭打ちでも言い渡されに来たように見える」
 控えめな笑声が転がり、ルドウイークは反射的に視線を上げた。そして目の前に立つ男の笑みにばつの悪さを覚えた。目だけは伏せて何やら言い訳らしきものを口にしかけたが、結局それは舌の上で潰されて無意味なうめき声になる。挨拶もなしにたわ言を口走るくらいなら、間抜けた音でも幾分かはましだった。
「お目にかかり光栄です、教区長」
 やっとのことでしぼり出された定型句は、また聖職者の笑いを誘った。ローレンスは愉快げに肩を揺らすと、わずかに呆れを──親しげな調子で滲ませて、ルドウイークに挨拶を返した。
「私も光栄だ、聖剣の振るい手よ。君は教会の人間ではないのだから、私に対して畏まらずとも良いのだがね……君のことは友人として招いたつもりでいる」
「まさか。一介の狩人ごときが、それこそ畏れ多いことです」
 ルドウイークは恐縮し、再び俯きがちになった。彼は丈も幅も堂々とした偉丈夫だったが、ふた回りも小さい細身の聖職者の前にあって、迷い子のごとく寄る辺なく見えた。狩りの中でこそ恐れ知らずの勇士であっても、人の世に戻ればむしろ他者に対して遠慮することのほうが多かった。ローレンスにはそれが手に取るように分かり、そしてどうやら、目の前の男の態度がむやみと心をくすぐるらしかった。
「君は美しい」と語りかけながら、ローレンスは狼狽える相手の頬に触れた。「例えるなら馬だろう。忍耐強く強靭で、やさしい獣だ。その口を血で汚すこともない……」
「ローレンス様、な、何を」
「そしてこの上なく忠実だが、注意深く主人を選ぶ」
 教区長の居室はあまり日の入らぬよう北向きに窓を造られていたが、東の果てを焼く暁はこの空間にも一定の明度をもたらしていた。ルドウイークはなおも己の口元に留まる相手の指先の意図を図りかね怯えた。見下ろしている筈のローレンスを、跪き仰ぎ見るように錯覚し、忍び込む光を背に受けた教区長の姿はただただ畏ればかりを呼び起こした。左右の均整はあたたかく血の通ったものでなくあるべくして造られた人形にこそ宿るそれ、白磁の肌には老いの影の一筋さえ忍び寄ることもない。時がこの男を見過ごしたまま流れ去ったかと訝るばかりの若やいだ面差し、なれど瞳にあるのは長らえすぎた生に飽く老人の倦怠で、両者の対比は歪められた命の印象を植えつけずにはおかなかった。
「申し訳ありません、夜のうちずっと獣を追いたてていたものですから」と彼は数刻まえに取り下げた言い訳を並べようとした。「疲れはてているのです、少し眠らなければ……」
 彼は言い終わることができなかった。唇に温度のない、柔らかな肌が触れた。とっさのことに緩んだその隙間から、濡れた感触が割り入ってくる。与えられた口づけを拒むことはできなかった、瞼を閉ざす前のほんの一瞬に捉えた奈落はまだ彼を見続けている。ローレンスは慈しむように繰り返し彼の唇を食むと、冷めた舌で温かい粘膜を優しく味わった。それは永遠に等しくあれど過ぎてしまえばひと時で、あとには馴染み深い鉄錆の香りが幻のように残った。ルドウイークは目を開き、緩やかに弧を描く相手の唇に、わずかな朱が滲むのを認めた。
「どうやら私は振り落とされずに済んだようだ」
 青白い手の平が狩人の頬から滑り下り、そのまま愛おしげに肩を撫でた。すると鐘が鳴った。平穏な夜明けを勝ち得、また今日を許された証だった。ルドウイークはこの音に引きずり出され、どこか遠いところから、自分を眺めているような気がした。叡智の探求者は偏狂的な蒐集家でもあり、息詰まるような過去の集積は、階調の異なる古く乾いた血の色彩でこの場を満たし囲んでいる。そしていま造り物の聖者が愚鈍な男に馬銜を噛ませ、彼自身の運命に繋ぎ留めようとしているところだ、滅びたものたちが均した道をゆく連れあいとして。

 彼は記憶の中の聖堂街に、どこか嘔吐できる場所を探した。そして空いた腹を抱えた今では少量の胃液しか吐き戻せないであろうことを、心の底から恨めしく思った。