任務の後、酒でも飲もうなどと誘いをかけたのはフロイトのほうだった。常にそうあるように、この日も彼はほぼ完璧に仕事をこなした。完璧までいま一歩足らぬ理由は彼自身の悪癖によるもので、本来なら五分前には片付けていたはずの二機のMTと遊んでいたせいだった。相手パイロットは双子の兄弟で、息もつかせぬ連携攻撃は慣れきった多対一の戦いに新鮮な刺激を与えてくれた。時にランダムに、時に鏡写しのように動くMTをはじめの二分で観察し、続く一分を攻略の足がかりを得るための試行に、次の一分を組み立てた理論の実践に使った。最後の一分はどうにかして乗り手を回収できないかに費やしたが、悪名高いアーキバスの捕虜になることを恐れた彼らは、ロックスミスの両手でハッチをこじ開けた時には既に自決してしまっていた。再教育センターへの文句とともに帰投したヴェスパーⅠは、御自ら迎えに出てきた副長から、シャワーを浴びる前にさんざん小言を浴びる羽目になった。作戦時間は決まっているのだから必ず守れとか、余計な弾を使うなとか、そもそもベイラムの製品などを主要な武装として使うのは企業部隊の首席としての自覚が足りないだとか、果てはこの間会計主任を説き伏せて経費で落とした高級寝具にまで及んだ。
「それは今の話と関係がないだろう。早いところシャワー室に行かせてくれ」
「この程度は序の口です。どうせ聞き流しているのですからあと十倍は言わせてもらいましょう。それにしても寝具とは……何を考えているのです。まさか貴方を再教育センターに送るわけにもいかない」
フロイトはまろび出た無意識の笑いが火に油を注いだことに気づいていたが、特に取り繕うこともなかった。口先だけの謝罪が一切相手の怒りを和らげないことを知っており、かつ──こちらの理由の方が大きかったが──なだめようがどうせすぐには終わらない叱責を聞いているのが、いい加減面倒になっていた。弊社謹製のパイロットスーツの通気性は抜群だが、ACを駆るのは重労働で、とりわけ今日のような楽しい時間を過ごした後には神経の昂りが発汗をもたらして、不愉快な後味を残しがちだった。
「待ちなさいフロイト、どこへ行こうというのですか。まだ終わっていませんよ」
「だからシャワー室だと言っている。一緒に浴びるか? でなければ……」彼は思いつきを反芻せず口に出した。「続きは俺の部屋で聞く。酒でも飲みながら説教したらいい」
これはスネイルにとって思いがけない提案だったらしく、彼はしばし黙り込んだ。そして何やら納得した様子で、そうですか、とだけ言い、先程の剣幕はどこへやら、あっけなく踵を返して行ってしまった。ガレージに残されたフロイトは、吹雪をやり過ごしたが如くの心持ちで、念願のシャワールームへ向かった。熱い湯を浴びているうち、出まかせの口約束は頭の中からすっかり流れ落ちてしまっていた。
しかしノックの音と共に、ヴェスパーⅡは律儀に部屋までやってきた。フロイトは辛うじて最低限の衣服を身につけていたが、きっちり着込んだ相手は眉根を寄せて明らかな非難の意を示した。しかしながらこれについてのお咎めはなく、ヴェスパーの首席と次席はローテーブルを挟んで向かい合うことになった。部隊長に割り当ての部屋は平社員のそれとは異なり、ルビコン3のような銀河の果てでも流刑の感なく過ごせる広さがあり、文明社会を思い出せるだけの設備が整えられていた。福利厚生は自由人のフロイトが企業での肩書を得るにあたって最も重要視するメリットだった。生活苦とは無縁のまま、懐を痛めるどころか暖めながらACに乗り続けられる。彼が幸運だったのは、眼の前の男──ひとつ下の役職の男が、参謀として作戦遂行や人員配置といった雑務をすべて請け負ってくれることだった。当のスネイルは今日のように青筋立てて苛立ちを露わにする日もないではなかったが、概ねこの並外れたパイロットを好きなように立ち回らせていた。
「まあ覚えているとは期待していませんでしたが」と挨拶代わりの嫌味を投げつつ、彼は持参した透明の液体をグラスへ注ぐと、片方をテーブルの端へ押しやった。特段の心構えもなく口をつけたフロイトは、すぐさま喉を焼かれるような刺激に噎せ込んだ。度数の高い酒は久しく味わっていなかった。これを味と言えればの話だが。
「うわ、何だこれ。蒸留酒か? 明日が思いやられるな」
「ご心配なく。こちらはこの程度ではほとんど酔いません」
フロイトは目を細め、またグラスを傾けた。今度は覚悟の上だったので、むしろ胃に落ちていく熱さは湯冷めした身体に心地よく染み渡った。ほどなく酒精は血潮を満たし、では本題に入りましょう、と始まった糾弾を、彼は上機嫌で聞き流した。こうして聞いてみるとスネイルは案外悪くない声の持ち主で、合間に飲み下すアルコールのお陰か、ガレージで聞いたものより角の取れた言葉の並びは、不真面目なAC乗りの耳をごく優しげに撫でていった。夢うつつの間でフロイトは考えた。これは本来の彼の声だろうか? そもそも、強化人間はどの程度まで肉体を“調整”するものだろう?
「スネイル、頼みがあるんだが」
「まだ目が覚めているとは驚きました。頼みとは?」
「脱いでくれ」
「何を言い出すかと思えば」彼は悍ましいものでも目にしたように顔をしかめた。「お断りです」
「別にセックスに誘っている訳じゃない。強化人間の身体に興味があるだけだ……お前は俺の知る限り一番質のいいサンプルだろう。お前がいいならセックスでも構わないが」
ヴェスパーで最も調整を重ねた男は、聞こえよがしに息を吐いた。このままお開きになりそうな間を置いて、彼は立ち上がると、向かいの席で溶けかけの男に影を落とした。いかにも神経質な手付きで制服の上衣を外しにかかった相手を、フロイトはもの珍しげに観察した。素面の時じゃこうはいかない。調整まみれの強化人間にも、ある程度酔える機能は残されているらしい。質のいい布地は丁寧に畳まれて、向かいの席に重なっていく。下着を残して、衣服は恙無く取り払われていった。無駄なく引き締まったヴェスパー上位の肉体は、優秀なフレームと同様の機能美を感じさせた。そこかしこに手術の形跡が見て取れる。有機的な素材と、セラミックと金属のパッチワーク。
「まだ下はいい。もっと寄ってくれ、触りたい……いや、俺が行ったほうが早いな」
彼は言葉通りにし、ぐらつく姿勢をどうにか制御しつつ(足場の悪いルビコンの山地ではよくやる)、慣れた手付きで相手の首に触れた。接続端子と思しき白銀のパーツが耳の後ろから首筋を通り、脊椎に沿って連なっている。それに合わせて鑑賞者は強化人間のまわりを歩いた。背を丸めるようにとの要望は叶えられなかったが、スネイルは千鳥足の上官の都合に合わせ、少し身体をひねって見やすくしてやるだけの親切心を発揮した。無機質な部屋の照明の下で、標本じみた骨の凹凸を数えるように、フロイトは並ぶコネクタに次々と指を滑らせた。こんな数を取り付けるのはさぞ大がかりな手術になることだろう。ひとえに技術者の研鑽と毎回供出される哀れな犠牲の賜物……などと感心しかけた矢先、あることに気づいてぎょっとし、さっきまで触れていた場所を、息のかかるほど顔を近づけて凝視しはじめた。曇り一つない金属部品の表面に、見慣れた図形が刻印されている。よく検めればパーツのすべてが、“どこもかしこも”の密度で自社の製造であることを主張していた。
「これも、これも、アーキバスの社章か。お前は変わり者だとは思っていたが、ここまで来ると狂気だな……下までそうなのか?」
「仙椎の接続部位の話なら、ええ。このような環境ではどこで低品質のまがい物が紛れ込むか分かったものではありませんからね。埋め込み前には必ず私自身の目でも確かめていますよ」
フロイトはうめいた。「ところで、別の話をするなら、あっちの機能はどうなんだ。前にオキーフが最新の強化人間は邪魔になる性器を切除されるとか言っていたな」
「……その話はどのような場で聞いたのですか?」
「ラスティと三人で飲んだ時」
はあ、と半ば声になりかけの呼気が長い時間をかけて吐き出された。大袈裟な溜息は与太話に対する彼の心情をよく表したが、単純に呆れ果てているといった風で、普段よりやや穏やかではあった。というより、実のところ二人の気持ちが理解できないでもなかったのだ。強化人間に関する馬鹿馬鹿しいでっちあげが通用する相手は少ない。フロイトは本来は強化人間で固められているはずの部隊の中で、それと完全に無縁な唯一の人間だった。
「酔いの回った愚か者二人はさぞ楽しそうにしていたことでしょう。ええ、楽しんだ筈ですよ、貴方のその、阿呆面を……真偽に関してはこう答えましょう、まったくもってナンセンスです。いくらACに最適化された体だからといって、去勢などされては困る」
「そうか……ACに最適化された体か」彼は発言の主旨ではなく、流れで出てきた表現のほうに興味を引かれた。「気になるな。もっとよく見たい、続きはベッドでやろう。セックスでもいいか? とにかく全部脱いでくれ」
まるでトレーニングに誘うような口調で寝室へ向かうふらついた背中を、スネイルは諦観をもって眺めた。一度ここまで乗り気になったフロイトを満足させるには、彼の望み通りにしてやるのが最も簡単で、かかる時間も短く済んだ。ある試作品が“気になった”時などは、実機を使う予定のなかったテストを自分の担当にするために、先進開発局のラボの前でまる一日粘ったという。当時の主任は飲まず食わずで座り込むパイロットの価値と手続きの手間を天秤にかけ、最終的に要求を呑まざるをえなくなった。後にまったく別件で部署替えを言い渡された際には、滅茶苦茶なAC乗りから解放された喜びで、それまで部下が見たことも無い晴れやかな顔でラボを出ていったと伝わっている。日々の業務に追われる中、そのような下らないやり取りをする気力は微塵もなかった。
当然のように照明はそのままで、スネイルは不平ひとつなく目の前の男に裸身を晒した。情緒も何もあったものではなく、すっかり頭の鈍らされた上官が放った「つるつるだ」という最悪の感想を頭から追い出しながら、彼は手術台にでも上がるように、寝台に横たわった。金をかけただけのことはある寝心地で、丈のある男二人で横たわっても広々と感じる程度に、縦横十分な余白があった。フロイトは(意外にも常識的なふるまいとして)着ているものを脱ぎ捨ててから、寝そべる相手の上に覆いかぶさった。触れ合う部分からはアルコールに温められた体温が、より低いほうへ共有される。強化人間が申し訳程度に添えた手のひらに、生々しい傷跡が触知された。それは脇腹の皮膚を荒らして塞がった古傷で、小耳に挟んだところ、フロイトがアーキバスにスカウトされる前にできたものだった。食い込んだ破片がもう少し深く刺さっていたら、この男は今日まで存在しておらず、ヴェスパーⅠはスネイル自身か、違う人物だったことだろう。どちらの分岐もうまく想像されなかった。自分の上席をACの事しか頭にないような男が占めるのは、もはや無条件で受け入れざるをえない事項だった。唇に相手のそれが押し付けられ、熱い舌先が割り入ってくるにあたっても、スネイルは抵抗しなかった。さりとて恋人のように応じるでもなかったが、湿った他人の感触はそうした素っ気なさにはお構いなしに口腔内を探索した。瞼を下ろして黙って受け入れていた彼が、まったく唐突に目を見開いて、相手の肩を掴んで押しのけるまでは。急な抵抗に首を傾げるフロイトに、スネイルは平生と変わらぬトーンでこう伝えた。
「三十二本です」
「は?」
「とぼけても無駄です。強化手術で歯の数は変わりません。それともうひとつ、自爆スイッチはありませんよ。もちろん即効性の毒も同様です。またオキーフとラスティですか?」
「ホーキンス」
「どいつもこいつも……いいですか、これ以上首席がおもちゃにされては部隊の面子に関わります。幸い私に施された調整は最新のものです。この際やり方は性交で構いません、好きなだけ学んでいきなさい」
こうなるとフロイトは元々あまり持ち合わせない遠慮を完全に捨ててしまって、ヴェスパーⅡは思いつく限りの手段で試し、遊ばれ、徹底した観察に供されることになった。中途で交わされた会話の中には、お前の顔が作り物だったならデザイナーをフレームの設計に回すべきだと思ったんだが、などという直截的な賛辞も含まれてはいたが、結局は次の一言が、スネイルを最も喜ばせるものとなった。
この反応の癖には覚えがある。確かに、アーキバスを抱いてる感じだ。