意識が浮き上がったとき、言い争う声が聞こえていた。片方がコーラル汚染がどうとか話すと、もう片方が冷たい口調で否定する。この程度の損傷から回復できないはずがないでしょう、などという高慢で嫌味ったらしい口調は間違いなくヴェスパーの副長だ。俺は起き上がって何をそんなにピリピリしているのかと尋ねてやりたかったが、できなかった。身体は指の先まで鉛のようで、ただ単に周囲の状況を知りたいと力をいれた瞼も重すぎて開かなかった。力をいれられなかったというのが正確なところだろう。皮膚の感覚も曖昧で、圧力が加わったり布地が触れたりしているのが、どこがどこだか分からなかった。横たわっているのは間違いなさそうなあたり、平衡感覚は無事らしい。自分に何が起こったか教えてほしかったが、スネイルと話し相手は厚い雲の向こうに行ってしまったようで、ぼやけた音は個々の単語を判別できなくなっている。暇になった俺は自分の内面のほうに手がかりを求めた。記憶は例の猟犬との戦いで終わっている。あれは悔しい展開だった。ウォルターの猟犬は前評判に恥じない実力の持ち主で、攻撃のパターンは堅実ながら、時折目の覚めるような変則的な挙動が交じるのがたまらなく面白かった! 誘われて踏み込みすぎたのが良くなかったというのは、あの瞬間にもはっきり分かって、俺もまだまだ未熟だと痛感した。だが次を与えてくれないのが猟犬の戦い方だ。レイヴンは相手の喉元に食らいつく機会を辛抱強く待っていた。こちらの隙をついて捩じ込まれたパイルバンカーの一撃が、コアに致命的な損傷を──
「活動が戻っている。閣下、首席隊長の意識が戻っているようです」
リプレイはいいところで中断された。急に騒がしくなる。何かひんやりしたものが顔に触れたが、その刺激が生じたのが額だか頰だか顎だかはまだ判断がつけられなかった。
「フロイト、聞こえていますか、フロイト……そこで突っ立っていないで何か処置をしろ、この無能が」
ブリーフィングでも始めそうだった平坦な口調が、後半は嫌われ者の番号付きのそれに変わった。能力はあるのに人望がないのは性格が災いしていると常々思う。見下ろせばかわいいものだが、下から支えるにはあまりにも不遜すぎる。部下に対する、こと命令するときの態度は弁護できないほど最悪だった。とはいえある程度友人に歩み寄って考えることもできないではなかった。恐らくもどかしいのだろう。何でも自分でやりたがる男だ。上層部と折衝し、作戦を立て、前線に出張っていきながら、捉えた捕虜は自らの手で行き先を決めた。肩書きが増えれば増えるほど、見る世界が増えれば増えるほど自分一人でできないことも増えるというのに、それが認められない奴なのだ。凡才の俺は集中すべき事柄をACに絞ったが、スネイルはなまじ器用なせいで何でも一定以上は上手くこなせたから、一番の不幸はそこにあるんだろう。
「強化人間ならどうとでもやりようはあるんですが」と無能呼ばわりされた男の声が弱々しく宙を漂った。「生身の回復力に任せるしかありません。繰り返しますが、コーラル汚染は」
「もういい。繰り返すことしかできないのであれば下がっていなさい、生身の回復力の話なら尚更この男には問題などありません」
くそったれの陰険上司め、という心の声が聞こえてくるような荒い足音が遠ざかる頃合い。俺はついに瞼をこじ開けることに成功した。焦点が定まらずぼやけていたが、目に入ったスネイルの顔は想像の百倍ひどかった。こいつにもやつれることがあるのかと俺は笑い出したくなったものの、特段何も起こらなかった。自由になるのは瞼だけのようだった。見つめているとひどい顔に驚きが乗り、さっき追い出された技師が呼び戻された。検査の間、スネイルは喋り通しだった。一聞くまでもなく十の疑問が解消された。整頓すると、まずルビコン3は廃星になった。俺がザイレムから出られたのは奇跡に近い。通信が切れてから、周囲で作戦にあたっていたLC機体を偵察に向かわせたらしい。右舷エリアから遠回りして辿り着く頃には、猟犬は次の仕事へ去ったあとだった。俺はコアごと運搬された。LC機体のパイロットは空いた大穴と生体反応の消失に絶望したというが、地上部隊の引き揚げのごたごたで余裕をなくした第二隊長閣下を恐れ、報告はあとにしたらしい。歪んだコックピット内で潰れた下肢と右腕は根本から切断された。流石は近接火力の王者というべき武器の一撃! 余波は凄まじく、俺の頭の中では脳があるべき所からはみ出ていたとかいう話もあった。だが、ともあれ俺は生きていた。
幸運だったかには疑問符がつく。状態が悪すぎて何も手をつけられないのだ。社の規定では負傷したパイロットはここからでも使いでがあるというのに、俺は特別扱いを受けていた。上層部は後処理に忙しく、ヴェスパーⅠに関するごたごたを面倒のリストに付け加えずに済むのならと、現場の雑事は第二隊長に丸投げしていた。ルビコン星系から一番近い支社に帰るべく、周囲の状況は目まぐるしく変わっていった。俺だけは動きがなかった。船の片隅に押し込められてこのかた、基準時間でまる一日、チューブまみれでベッドに横たわっている。スネイルは足しげく通ってきては記録を確認し、ヴェスパーⅠの身体を検め、看護人をちくりとやり、今後についてのささやかな展望を披露して帰っていった。俺の半径二メートルで、何もかもが停滞していた。前ほど苦しくなくなったし、細かい傷は治ったが、それだけだった。手の施しようがない。テクノロジーに救えないのなら、袋小路の人間を、いったい誰に救えるのだろう。
扉が開いた。淀みない歩調が誰のものかは、足音を聞くだけで明らかだった。既にルーチンと化している一連の作業のあとに、俺はイベントをひとつ計画していた。だいぶ軽くなった俺の身体を転がし、拭いて、皮膚の乾燥してがさがさしたところにクリームを塗り込んで、そうして彼は最後に残った左腕のこわばりをほぐしているところだった。長い指が、骨と皮ばかりになった手首を包む。昔はベッドの上の戯れで、俺の背に何度も傷を作った指だった。今は壊れた機構をメンテナンスするのに使われている。どちらも無益だったが、前のは遊びで、悪くなかった。今はただやるせない。第二隊長は淡々と、貴重な時間を空費していた。賭けに出る時が来たようだ。
「もう死なせてくれ」
返事はなかった。いかにも酷薄そうな切れ長の目がわずかに細められるのが見える。手は止めなかったが、沈黙が続いた。空気のそよぐ音すら聞こえそうだった。
「頼む」俺は苦労して喋り続けた。「お前がやってくれないなら、自分でやる」
「何を馬鹿な事を」
「スネイル」
「少し眠りなさい、薬を用意させます。起きる頃にはくだらない考えも消えているでしょう」
スネイルは俺の口にマウスピースを押し込んで、あっさり部屋を出ていった。もう俺がそれを自力で外す力もないのを知っている。照明が落ちると同時に、俺の意識もぼんやりとした。はじめこそヴェスパーⅠの再利用について提言する者も居たが、理不尽な処罰に怯えて誰もそれを口にしなくなった。お咎めなしで居られるのはフロイトとかいう罰する価値もない男だけだ。いつまでこうしていられるか、俺には予測するだけの知識がなかった。できればそう長くないといい。日々忙しく、価値のないものを手放すこともできずにいるあいつが、かわいそうでならなかった。