「フロイト!」
格納庫に絶叫がこだまする。明日の整備予定を放り出し、何事かと部屋を出ればヴェスパーⅠの割当ての場所にはロックスミスが戻っていて、あろうことか人間ひとりを指でつまんで持ち上げているところだった。僕はみぞおちの下をヒンヤリさせた。精神錯乱に陥ったオールド・エイジのパイロットが出迎えに来た上司を握り潰した事件は整備担当の間では有名な話で、社の箝口令も虚しく教訓として代々語り継がれていた。他社のパーツを惜しみなく組ませてくれるフロイト隊長は僕ら技術屋の間では人気があったが、それでもやはりヴェスパーはヴェスパーで、膜一枚隔てたような異質さはおそらく、調整を重ねた強化人間ゆえのものと解釈されていた。僕は壁掛けの通信機に駆け寄り、どこに連絡すればいいか迷った。危機管理チーム? 医療班? それともヴェスパーの隊長の誰か? しかしもたもたしているうちに、普段はパイロットの要請を聞くためのスピーカーから、普段と変わらぬ首席隊長の、のんびりとした声が流れてきた。
『暴れると加減が難しくなるだろう。しばらく力を抜いて静かにしていてくれないか』
僕は受話器を片手に画面に見入った。カメラは様々な角度からこの奇妙な一幕を映し出し、映像はだらりと足を揺らした第二隊長閣下の唇の動きを読めそうなほど鮮明だった。生憎と読心術は専門外だが。
『いいぞ、そのまま……お前のほうで少し移動してくれれば収まりが良くなる』
閣下は緩んだ指の間から、傾けられた掌へ移動した。より面積の広い平面が、上の人間を安定させる。僕は(念のため声を抑えて)笑った。ミニチュアのヴェスパーⅡはちっぽけで面白い。グロテスクな調整を山ほど重ねた強化人間は地上で対決するにはあまりにも威圧的だったが、ロックスミスと比べればファストフードの安いおまけだ。よくやった、と機嫌よく褒めるフロイト隊長と違い、閣下はご立腹のようだった。こんな渋い顔の人形を持ちたいと思う子供は居ない。何か憎々しげに喋っているのは、おそらくお小言の類なんだろう。もうすっかり用無しになった通信機を離れ、端末の録画機能を起こす。同僚にもぜひ見せてやりたい光景だった。
『そう怒るな。お前以外の人間で試さなかっただけ理性があると思わないか』彼は喉の奥で笑いながら、ロックスミスの片手を上げた。『示指以外は雑な操作しかできないな。これは引き金を引くより難しい。動くなよ、スネイル。大丈夫だ、予行演習はしてきた』
「いい加減に……」耳に届くほど大きな非難の声があがったが、巨大なACの指が胸の上に降ろされた瞬間に音量が絞られる。指は隊服にわずかな皺を寄せた段階でぴたりと止まり、また少し離れ、はじめと同じ動きを繰り返した。皺の影が浅くなったところを見ると、今度はうめき声を出させないだけの位置に留まっているようだ。僕は感嘆のため息をついた。優秀なAC乗りの操縦技術は慣れるほどチェックしてきたが、これほど繊細な挙動は見たことがない。ヴェスパーの首席はフレームの癖を掴むのが誰よりも上手い。この周知の事実はもっとダイナミックな動きでしか記録されてこなかった。強化人間の表面を、無骨な鉄の塊が滑る。隊長が何気なくこなしているのは常人なら骨や臓器の一、二個“やらかして”いてもおかしくない離れ業だ。副長閣下の強張った顔がそれを雄弁に伝えている。
『怖いか? ……いいな。怖がっているお前の顔はそそる』
僕は我が耳を疑った。お前の顔がなんだって?
『生身の俺を相手にそういう顔はしない。ロックスミス、お前が羨ましくなってきた』
小さな閣下は自身の腹のあたりで静止した指を叩き、何か要求しているようだった。これをどけろとでも言っているのだろう。と、フロイト隊長は笑った。朗らかではあったが、胃の腑を氷にでも浸けられるような、人をぞっとさせる響きがあった。
『お前は半分に欠けてもちゃんと機能できると聞いたぞ。試してみるか』
こんな残酷な言葉を向けられた閣下が示すのは、定めし恐怖の慄きばかりと思われた。しかし予想とは裏腹に、彼は目を伏せ、どこかはにかむ様子だった。初めてのキスをもらった恋人から匂い立つ、瑞々しい恥じらいの気配。意味不明のやりとりが、どのような言葉の上で成り立っているかは分からない。スネイルの口元が動く間、僕は息を詰めていた。聞こえる訳もない音を盗み聞こうとしているのに、三秒経つまで気づかなかった。
『分かった、もう終わりにする。俺も早くお前を抱きたい』
僕は完全に硬直した。ロックスミスが客人を迎え入れるのを瞬きもせず見守ってから、体の制御を取り戻し、急いでスピーカーのスイッチを切った。それから録画を全て消した。後日これについて直属の上司からお咎めがあって、その後日ヴェスパーのトップが直々に感謝の言葉を述べに来るのだが、全部上の空だった。お陰様で僕の人生は少し狂ったような気がする。あれからあまり眠れていない。