楽しい時間につきものの

 鼻歌が聞こえる。美しい思い出にはいつだって音楽がつきものだ。あの男はよくそうやって、卑しい行為に文明らしい趣を添えた。最高の人生には最高の酒がいる、などと言いながら強くもないアルコールを片手に押しかけて来たことも、一度や二度の話ではなかった。酔いつぶれた男の肌は温かく、我々の間の恥じらいや気後れを溶かすには十分な熱を帯びていた。戒められた手首が、吊り下げられた肉体の重みに痺れている。前戯の間じゅう余計な感想が述べられて、熱い呼気にもやはり言葉が乗っていた。たわごとが耳朶の根本から首筋を滑り、鎖骨のあたりでくぐもった笑いに変わる。何が可笑しいか聞けば返ってくるのは常に違った冗談だったが、どれも同じだけの馬鹿馬鹿しさと真剣さを含んでいて、どんな浮わついた囁きよりも、甘く響いたものだった。みぞおちの下辺りからゆっくりと刃先が食い込む。肋の並びが終わり、愛撫が骨のない柔らかな部分に差し掛かると、彼は決まってゆっくりとひとつ、溜息をつくのだった。比喩的な血に塗れた両手が慈しんだ腹部には、可動性のために犠牲にされた臓器の揃いが詰まっている。お前の肉体は美しいな、とそれまでの批評を締めくくり、それが下半身に至る前に口づけを交わすのが、我々の取り決めだった。そこに至るまでに興が乗らなければ終わりで、時には忙しさや、単なる眠気によって幕が引かれた。そういう場合は正直に打ち明けた。皮膚が引きつれ、損傷した筋肉の緊張に伴って痛覚が遮断される。
「もう一息だな、なんて頑丈な肉をしてやがるんだ。食えるかな?」
 断れば彼は無理強いをしなかったが、代わりにどこかへ出かけていった。自分をあっさりと放り出して振り返りもしない、そういう彼の背中を見送るのはどこか癪だったが、癪ではなく飽きられたのかと恐ろしかっただけだというのは、今この瞬間に自覚したことだ。大事なことはいつも手遅れになってから分かる。裂け目が十分に広がると、ニトリルの薄膜に覆われた指がその間を割り入ってくる。続きまで進む合意が取れると、だいたいはそのタイミングで鼻歌が始まった。機嫌の良さをランダムな曲に託して、彼は私を調整した。古いヒットチャートと彼自身の創作を継ぎ接ぎにした旋律は、鏡像に見る我が身を彷彿とさせた。いよいよという段階になると音楽は途切れがちだった。代わりに最高の兵器に捧げるべき賛辞が際限なく降ってきて、受け入れる私の自尊心を満足させた。ぞんざいな手つきでかき乱された腸管の位置の乱れが、薄っすらとした不快感として認識される。肘まで飲み込まれた腕が上向きに探索し、目当てのものに辿り着いたか、歓喜の声があがる。おいの一言で薄汚れた作業服姿の仲間がやってきて、裂け目の両端を力一杯に押し拡げる。重力に負けてせり出した腸のまとまりを、最初の男が引きずり出す。傷一つないことが示すのは解体者の熟練だ。血脂に塗れ滑りやすくなったそれを把持するために、遠慮のない力がかけられる。それは彼が抽斗へ適当に詰め込んだ衣類の中から、くしゃくしゃになったジャケットを取ろうとするのによく似ていて、私は懐かしさに震える。あるいは単に侵襲に対する反応かもしれないが。よけた臓器を引っ張って視界を確保し、男が胸ポケットからライトを取り出し、中を照らす。うっすらと湯気が立ち込めた。
「こいつ、流石に第二隊長だ。すげえぞ、アーキバスの一級品がゴテゴテついてやがるぜ」
「早いとこ頭をかっ開きてえが、こいつ、さっきから反応が鈍いじゃねえか」
「くそったれ強化人間め。そう調整されてやがるんだ、こいつはこのままなら昼寝だってできる。もう血が止まってるだろ。だが見てろ、内側からの接続なら通る」
 男はライトを持ち替えて、胸ポケットから何かを取り出した。視界を塞ごうとする腸のかたまりを押し留め、母指の先ほどのそれを、先刻見つけた場所へ植える。男が見上げる。翌朝に飲むフィーカを思わせる濃いブラウン。
「お前にはたっぷり苦しんでもらう。同志達の苦しみに比べれば灰の一粒ほどでしかないが、それでも手向けにはなるだろう」
 鼻歌混じりに、彼は端末のキーを叩いた。私はそれでやっと、戻れぬ日々を想う痛みを思い出した。