半世紀前に放棄された高層住宅の一室は、多少の手を加えさえすればそこそこ住める隠れ家だった。隙間風こそ撲滅には至らずだったが、汚水の流れはようやく居住空間から排されて、いまは即席の雨どいを伝って向かいの部屋へ導かれている。男は旧時代的な暖房器具の上から湯気の吹いたケトルを取り上げ、茶葉の入ったホーローのマグにそのまま湯を注ぎ入れた。彼はジャケットを着たままで、窓の外には雪がちらついている。ルビコン3は表層で燻り続ける戦火とは裏腹に、気候としては常冬の青ざめた星だった。男の古巣ではこの惑星も地下深くではまだ熱い血潮が流れ続けているとかいう調査結果が出ていたが、既に飯の種程度の話題にしかならなかった。彼はマグの中の色づいた上澄みをすすり、自分の呼気が白くかたちを得るのを眺めた。おそらくは家族用にと作られたらしき部屋の間取りは大きな居間の一室と寝室に使える小さな二室、それから炊事場に水場と、暮らしには申し分ない作りをしている。ひび割れて剥がれた壁の塗装が示すのは、アイビスの火以来この場所が無人のまま閲してきた時の流れそのものだった。マグを置いた男は寝室から近づく物音に顔を向けた。するとちょうど彼の相棒が長身を引きずって戸口に現れ、この間座面を繕ったばかりのソファの上へ、倒れこむようにして座った。ごわごわしたセーターが大幅にずれたのを体勢とともに苦労して直し、彼はようやっと一息ついた。始終を見守っていた男はというと、あまりにも無様なこの一連の動作を気に留めぬ様子で微笑みかけ、朝にお決まりのフレーズで挨拶した。もう一人は息を整え、より丁寧な口調で返す。そしてさっきまで相手の飲んでいたお茶を、差し出されるままに両の手で受け取って一口味わい、温かいと笑みを漏らした。飲む時にも肘を自らの身体で少し、支えなければカップを持っていられなかった。
ヴェスパーの最上位二名が逃亡者に肩書を変えたのはウォッチポイント・アルファ探査の直前で、アーキバスには余裕がなかった。先に無許可で出撃したロックスミスを追う形でオープンフェイスが出ていき、二機の信号が消失した時にはもう既にベイラムの部隊が縦坑の深部まで降りていた。首席隊長の離脱によって低下した士気は信号の消失地点からオープンフェイスの残骸が発見されなかったことによりさらに陰鬱な気配を帯び、不吉な噂ばかりが流れた。無理矢理に起用した独立傭兵によってレッドガン部隊のみならずヴェスパー部隊の隊長格にさらなる欠けが二つ加えられたのも、部隊内に漠然とした不安を振り撒いた。とはいえ最終的にアーキバスは勝利を得た。技研兵器を退けた不安要素のレイヴンはRaDの介入により結局捕らえること叶わずだったが、企業の目は無限の富に等しいコーラル湧出地へ向けられ、それを吸い上げるバスキュラープラントへと続き、過程で消えたものたちについては一切が傍流に落ち、顧みられることもなかった。その後数年は小競り合いこそあったもののベイラムは既にルビコンから手を引き、解放戦線はもとから大した勢力でもなく、見かけ上は驚くほど穏便に月日が流れた。プラント建造が大気圏外まで到達しようという段階になって、眠りから醒めるように闘争の火が噴き上がった。解放戦線の新型機が独立傭兵レイヴンの乗機を伴って現れ、プラント周辺に猛攻をかけた。同時に各地の拠点が攻撃を受け、それまで仮初めの安寧に緩んでいたアーキバスの戦力はほとんど総崩れになった。かろうじて持ちこたえたのは居残り組の隊長格がそれなりに優秀だったからだが、足りない戦力を埋めるためにアーキバスはCOAMを惜しまなかった。プラントの部分的な破壊により戦局は膠着したが、コーラルによって生み出される利益によって市場はにわかに活気づき、形骸化した惑星封鎖の開け放たれた門扉を通って傭兵や中小の星外企業が続々と参入した。彼らはどちらにも付き、誰とでも取引した。傭兵同士の戦いになることも珍しくはない。新しい井戸が見つかるたびに、それが新しい火種になった。ルビコン3が混乱の頂点に達した頃合い、一組の傭兵が辺境の戦場に認められるようになった。彼らははじめベイラムACとアーキバスACの奇妙な混成部隊としてその存在を知られたが、実に三度目の出現時に、アーキバスから賞金をかけられることになった。彼らはフレームも、兵装も、名すらも変えてはいなかった。解放戦線は彼らを憎悪しつつも、淡々と依頼をこなすことが分かってからは憎き仇敵を積極的に死地へ差し向けることで、その使いでに満足した。新規の顧客からは実力に比して安上がりな彼らは特段に重宝された。かつての同僚と時折刃を交えることがないでもなかったが、正面きっての討伐は行われなかった。実のところあらゆる戦局が同様だった。捕食者と被食者と分解者の奇妙なバランスがルビコンに成り立って、しばらくは誰も勝者にならなそうだった。彼らが滑り込んだのは、そういう生態系だった。
「またこわばりが強くなったようだ。新世代型をいじれる医者を探さないとな」
男は言いながら、水分補給の終わった相棒のマグを回収した。重みに耐えかねた筋肉には震えが生じはじめていて、丁度いいタイミングだった。
「苦しくないか?」
「心配いらないと前にも申し上げましたが。これは中枢神経ではなく人工筋とそれに付随する運動神経の異常であって、置換しているのはあくまで骨格筋の一部です。貴方の心配するような事にはなりませんよ……幸い他の部分に不具合は生じていませんし、仮にそうなったところで脳さえ無事なら問題ありません」
「あのレイヴンもはじめは脳だけでACを動かしていたというしな。お前を筒に入れて、オープンフェイスに突っ込んで、そのままそこで生活させるのか。ぞっとしないな」
男は肩をすくめ、中身がほとんど開ききった茶葉だけになったマグを、手近な家具の上に置いた。朽ちかけた内装には他の部屋からの借り物と、それからドーザーやルビコニアンから買い取ったものが加えられている。定期的な引っ越しのため、生活の品々も基本はありあわせで済ませていた。一応彼らの破格の懸賞金は生きており、寝首をかかれては困るので、ひとところに長く留まるのは避けている。男は会話の隙間の沈黙に、手持ち無沙汰で室内へ視線を彷徨わせた。年季の入った錆びつきのコーヒーテーブル、誰とも知れない入植者の燃え残りの家族写真、煤けて何の柄だか分からなくなったラグの部分的な幾何学模様。今は意味のない集中管理の暖房の配管を追って見つかる拭いても削っても無意味だったどす黒い天井の染み、枠しか残っていなかった窓へ付け替えた質の悪いガラスの曇り。その向こうに広がる眼下に広がる打ち捨てられた都市の情景、なかば水没した道路、タイヤの盗まれたトラック、極寒がもたらした純白の積雪を背景に黒くわだかまる、貧しい植生の森。地表へこびりつく地衣類のようなグリッドのレイヤーの向こうに聳える、雄大な山脈。そして全てを包み込んで威圧する、ルビコニアンの愛する不吉な紅い空。彼は遠くへ飛んだ意識を傍らへ呼び戻した。斜向いに座る強化人間。つりあいの取れた恵まれた体躯は、徐々に窶れて縮んできている。傭兵稼業をはじめてしばらく後、不具合が出はじめて身体が思うように動かせなくなった。昔まれにあった病気のように、いまに呼吸筋まで動かなくなって窒息死するのではないかと男は勝手に危惧したが、それはないと本人に一蹴された。本当はどうなのか、追求する気も今はなかった。
「入れっぱなしになったら、俺は入れないわけか」
「当たり前でしょう。余分のスペースなどありません」
「俺は“余分”に格下げか」想像の中で、コックピットは鉄の檻になり、棺になった。くだらないイメージを振り払うようにくつろいだ姿勢をとる。まっさらになってからようやく次の言葉を継いだ。「キスできなくなるのは寂しいな」
強化人間はそれについて答えなかった。フロイト、と彼は呼びかけた。今日の仕事はどうなりましたか。ばっちりだ、とフロイトと呼ばれた男は笑顔で答え、顧客は新しく参入した死の商人だと付け加えた。そのあまりの陳腐な表現が、二人の間に笑いを誘う。和やかな声は無人の廊下まで転がっていって、そこで淀んだ水たまりに溶けた。