レッドガンの隊長と生身の殴り合いを一戦設けたい、などと言い出すフロイトに対し、スネイルが抱いたのは以外にもほとんど安堵に近い感情だった。短い台詞で用いられた単語の並びの意味するところは確定した時制ではなく単なる願望であって、すなわちまだ実行に移されてはいないことを示していた。彼は無邪気な(ふざけた、おろかな、軽率な、遊び半分の、子供っぽい、危機感の足りない)上官の夢物語を、そうはあってもきちんと論理立てて否定した。
「貴方はロックスミスに乗っていれば互角以上の戦いができるでしょうが、生身となれば万に一つも可能性はありません。ヒロイックな前置きではなく、単にゼロを耳触りよく言い換えているだけですよ、フロイト……いいですか、貴方は鍛えているとはいえ人並みで、生身での戦闘訓練は最低限のものしか受けていません。その点レッドガンは古式ゆかしきマッチョな軍隊方式の集団ですから、自らの肉体を武器として用いることも想定された訓練項目が生き残っています。加えてあの木星戦争の英雄には何よりもまず経験がある。路地裏の喧嘩から多対一の襲撃に、試合形式の立ち合いに至るまで……それこそ貴方お得意の『コツコツ積み上げる』形で得られたものです。データを流し込むのとは訳が違う。貴方が前準備にどれほど時間をかけるかは知りませんが、我々は決して暇ではないことを思い出していただきたいものです」それから彼はもっと簡潔でより当然の理由を付け加えた。「そもそもベイラムが了承するはずがない」
「会社を通さなければいいだけだ。ギーク・ボーイを舐めるなよ、ミシガンの個人的な連絡先ならもう掴んでる」
得意げな様子で口角を上げる相手に対し、貴方という人は、という一言を飲み込んだスネイルは、許された数秒の無言のうちに次の手を探した。ある程度魅力的な提案の候補が即座に十ほど思い浮かんだが、先進開発局の試作品やら腕試し的な追加の作戦といったお楽しみはどれも〝歩く地獄〟に比べればやや遜色ありといった風情で、首席隊長の気まぐれを宥めるには使い古しの感さえあった。スパーリングの相手としての独立傭兵の雇用を検討しかけたヴェスパーⅡはふと、お誂えむきのデコイが目の前よりももっと近くにあるのに気づいた。彼は他の案すべてを捨て去り、それを差し出すことに決めた。
「私ではどうです」
フロイトは虚を突かれた様子で目を瞬いた。「何だって?」
「私が貴方の相手をします。アーキバス最強の強化人間はレッドガンの頭領よりお気に召すかと」彼は先程の説得と変わらぬ調子で言い連ねた。「いかがですか?」
B級映画のあおりかという陳腐な前置きは、果たしてフロイトの子供っぽい欲求にはこれ以上ないほどよく効いた。悪くない、と彼は答え、新しく、馬鹿馬鹿しい肩書を追加された相手へ半ば恍惚とした眼差しを向けた。視線が顔からつま先まで降り下り、そしてまた同じ軌跡を這い登る。
「最強の強化人間か、確かにそうだったな……今までお前の事をそういう目で見たことのないのが不思議なくらいだ」
「それは結構。では、日時はそちらの指定で」
基地内に余りの部屋はいくらでもあり、訓練室についても貸し切りにて問題のない一室を用意することが可能だった。殴り合いの喧嘩に審判はいらない、という合意のもとで向き合った二人のほかに立ち会う人もなく、記録のために動いているカメラの他は、誰もこのことを知らなかった。ルールは単純かつ明瞭な『最後に立っていたほうの勝ち』方式が採用された。とはいえエースパイロットがこんな遊戯で使いものにならなくなっても困るので、最低限の禁止事項は設定された。要は回復不能な損傷を残さないという取り決めで、強化人間と純人間のそもそもの筋力や反応速度の差を均す目的ではなかった。ハンデをつけるならこのカードでやる意味がない。彼らは言葉も交わさず互いに目配せし、はじめに動いたのはスネイルだった。予備動作なく放たれた容赦のない一撃を、フロイトもとっさに前腕で受け流す。うまく滑らせたものの、衝突の余波が肩まで響いた。間髪入れずに加えられた追撃を屈んで避け、その反動を利用して体幹に拳を入れる。緊張した強化人間の肉体は彫像のような見た目を裏切らぬ手応えを返した。続くもう片側の打撃は的確に防御され、飛んでくる肘を仰け反り躱したフロイトはその勢いのまま繰り出された蹴りに打たれてうめき声をあげた。その顔に浮かんだのは苦悶の表情ではなく、痛みに歪められてはいたものの紛れもなく笑みといえるものだった。彼はすぐさま体制を立て直し、追い詰められる前にバックステップで距離を取って仕切り直しにかかった。呼吸を整える間もなく、二人の距離が詰まった。しばらくはこうした打ち合いが続き、室内には呼吸音と靴底の擦れる音、骨肉のぶつかり合う鈍い音が響いた。組み手のように行儀よく戦う場面もあれば、胸ぐらを掴んで振り回すような荒っぽい展開にもなった。格闘が長引くにつれフロイトの息は上がった。彼は不意打ちの一撃を手刀で叩き落されながら、始めた頃と全く変わらぬ相手の涼しい顔色に内心で感嘆していた。骨肉や臓器を人工物と置換された肉体が純人間を上回るパフォーマンスを発揮するのは当然のことながら、ここまで仕上げるには相応の鍛錬が必要なのは火を見るより明らかだった。だが不利を承知で挑むからには、彼の方も無策ではなかった。
次の瞬間、フロイトの右手が殴打とは異なる動きでスネイルの眼前に迫った。パチン、と指が鳴る。逆方向からの膝蹴りがもろに脇腹に入り、試合が始まってから始めて、スネイルの眉間に皺が寄った。続けざまにもう一発、同じ部分に拳骨が沈む。強化人間の頭の中で、仮想のアラートが鳴った。攻勢に移ろうとした彼はまた、パチンという音が閃くのを聞き取り、それが意味を形成する前に音の方へ注意が向く。隙を突かれて受けた攻撃はまたしても先程と同じ、脇腹の肋骨が終わるあたりに命中した。心拍数が跳ね上がり、全身の血液が沸騰するのを感じた。彼は無意識のうちに歯を食いしばり、レギュレーションを逸脱した激しさで拳を振りかぶった。フロイトは予想通りのその軌道から軽くステップして逃れ、ぐっと身を屈めると、全身のばねを使って渾身のカウンターを見舞った。下顎へ掌底をもろに食らい、スネイルの身体はぐらついた。彼自身の経験と自ら把握している調整項目のスペック上はこの程度の衝撃で昏倒する筈がなかったが、混乱した視野の中で天地が境を破って混ざりあった。平衡感覚を失った彼が背と後頭部に少しばかりの痛みを感じた瞬間、混沌は嘘のように凪ぎ、胸元に手のひらの形に重みが加わった。天井から注ぐ青白い光を遮り、よく見知った形の影が落ちる。
「スネイル」肩が荒れた呼吸と同じリズムで上下している。「俺の勝ちでいいな」
やろうと思えばやんわりと体重をかけただけの相手を振り払って立ち上がるのは容易だったが、スネイルはそうしなかった。勝敗は決していた。
「ええ、私の負けで異論はありません」
「良かった。第二ラウンドを言い出されたら降参するところだ。身体中が痛い。脱いだら痣だらけだろうな」
彼は笑い、そのせいで生じた痛みに顔を歪めた。致命的な損傷をもたらしそうで狙われずにいた顔面こそ無傷だったが、他の部位はあらゆる種類の疼痛で埋め尽くされている。手加減しているとはいえ、強化人間と生身でやりあえばどうなるかのいい見本だった。故に勝負の結果はより明確にスネイルの脳裏に疑問符を描き、彼はそれを素直に口にした。
「フロイト、私はそう簡単に目を回したりしません。貴方が何か仕掛けたのは分かりますが、何をされたか具体的なところは見当もついていません。種明かしをしていただけますか」
答えを返す前に、フロイトの身体が崩れ落ちた。興奮状態が紛らわせていた疲労は限界に達していた。落ちた先はスネイルの身体の上だったが、彼らはこの状態を平然と受け入れ、下敷きになった男は安定を欠く相手の背に手を添えて支えさえした。睦み合う恋人よろしく重なりあったまま、会話は続いた。
「リスクを嫌ってフロンティアには踏み込まない。それがお前の弱点だと踏んだ」そこで深呼吸をして、解説を再開する。「コーディネーターの所へ行って山ほど資料を漁らせてもらった。死んだのも含めて、前例と追っての報告は十分あった。お前がこの間受けた知覚神経系の調整は、術後に8割が至近での破裂音へ過敏性を示すそうだ。AC搭乗時には無視できる範囲だが、殴り合いなら話は違う。ワンフレームでも奪えれば勝敗を分ける。あとはお前の手術を担当している技術者から下顎のこのあたりを狙えば、うまく頭の中心まで振動がいくだろうと教わった。ソフトのほうの調整担当からはどこを攻めればお前の内分泌系の補助器官に死の危険を知らせられるかみっちり講義を受けたし、オープンフェイスの整備士にも話を聞いた。フルチューンの強化人間は身体の動かし方と機体の動かし方が似てくるんだそうだ。オープンフェイスの戦闘記録を五年分見直した」
言い切ってしまって、フロイトの瞼が降りた。満足げな吐息が、触れ合う肌を温めた。常より早い心拍が、それぞれの胸郭を隔ててだんだんと落ち着いたものへ変わっていくのを、強化人間は調整された皮膚感覚ではっきりと認識していた。
「こんなに沢山の人間が関わっているとは知らなかった。お前は確かにアーキバス最強の強化人間なんだな」
「当然です。いかがでしたか」
「最高だった」
「また体を動かしたくなったなら、いつでも相手を務めます。ですから他の人間を煩わせぬように」
「殴り合いは当分必要ない。もっと別の事がしたくなっても呼んでいいか?」
「どうとでも」
アーキバスにとってフロイトという人材は、大多数の認識に反し、厄介ではあるが問題児というものではなかった。たまに趣味に走ることはあっても、全体としては利益追求の副産物といえる程度であったし、社の方針の根幹はよく理解していて、背いたことは一度もなかった。名高いAC乗りがひしめくルビコンでも、彼は概ねわきまえた態度を続けていて、大人しくしていることのほうが多かった。ことさら面倒な気配を出すのは彼の副長の前だけで、戯けたアイデアは常に未遂の時点で会話の場へ持ち込まれた。無視を決め込めばやりかねないのが恐ろしいところだが、要は寂しいのだ……とスネイルは名目上の上官をそう評していた。フロイトが地位と評価と引き換えに失ったおふざけの相手というのが歯に衣着せぬ尊大なヴェスパーⅡで、彼はどんなに遊んでも壊れない相棒だった。それはある意味癪な事実ではあったものの、彼自身なぜか満足していた。おもちゃにとって最高の栄誉は、長く遊ばれ続けることである。