基地からほど近い地点にある崖の上、MTが二機並んでいる。最低限の兵装には緊張感もなく、乗ってきた人間はその足元にのどかな陣を敷いている。日は高く、空は澄み渡っている。フロイトは折りたたみの椅子に腰掛けたまま、バックパックを手探りした。常よりルビコンの気候は人の生存を拒むように凍てついていたが、この日は風もなく落ち着いていて、惜しみなく降り注ぐ陽光が地表で活動するすべての生きものを(遮るものがないかぎり)平等に温めている。彼は目当ての缶を取り出すと、それをいったん膝に置き、携帯コンロの調子を確かめた。バーナーがACよろしくざらついた音を立てて火を吹き出すと、上に小鍋を乗せてから、その中へ缶の中身をあけた。既に煮込まれた状態の有機物のかけらが鍋底に散らばった。足りない分を補うために、小袋で持参した細切れの野菜も加える。鍋を揺らして中身をなだらかにしつつ、素っ気ないデザインのボトルからミネラル分の少ない水を少しばかり注ぎ込む。立ち上がりかけていた湯気が消え、鍋の中が見通せるようになった。ここで初めて、対面に座した第二隊長が身動きした。地獄の淵でも覗き込むように、ちらと鍋の中身を盗み見る。クリーム煮を称した缶詰のソースが、対流しはじめた水中で透明な領域をじわじわと侵していくところだった。沈んだ具材のうちあとから入れた分、形がはっきりしていて大きいものは、どれもおそらく本物の(そして汚染のない)土壌に根を張って育った植物で、このルビコンでは紛れもなく希少品だった。
「待つ間くらいはのんびりできるのがいいな。お前が予定を合わせてくれてよかった」
「あまり長時間かかるようであれば、機内に戻ってはどうですか。どこまで様子を見ればいいか教えていただければ、私が知らせます」
「悪いが遠慮しておく。BAWSは悪いメーカーじゃないが、コックピットはさすがに外より空気が悪い。それにここまで来たのは景色を楽しむためでもあるんだぞ」
言葉通り、高台からの景色は良かった。この惑星には珍しく、彼方から響く砲火の音もない。観光で来たのであればもう少し楽しめそうだと思わずにはいられない程度には、今日の情景は平和そのものだった。地表にこびりついたグリッドでさえ既に馴染みになりつつあって、ルビコン暮らしの長くなった彼らには、故郷じみた感傷を呼び起こしさえした。心地よい沈黙のうちに時は過ぎ、沸騰しはじめた鍋の蓋が軽快に踊りだした。フロイトは中の野菜がある程度煮えているかをどこからか取り出した匙で押して確認した。いい具合に芋が崩れる。満足した彼はバックパックから手のひら大のビニル包みをひとつ取り出し、一度ぎざぎざした端のほうをつまんで引いてしくじったのち、パッケージを歯で食い破って開封した。
「フロイト、それはまたルビコニアンから手に入れたものではないでしょうね」
警告よろしく発された言葉に、料理人の手を止める力はなかった。板状の茶色い塊が、凹凸に合わせてほどよく割り入れられていく。フロイトの顔に笑みが広がる。彼が笑うのに合わせ、凍てつく外気に凝結した水蒸気がその口元を賑やかした。
「ちゃんと糧食のカタログにある。ただ、通常の注文リストには入っていないというだけだ。こんなのでもひと月近く待たされた」
「納得です。自分で作ろうという隊員など居ませんよ。非戦闘員にしても、こういうものが食べたければ食堂に行けばいい」
「だが俺のは特別だ」彼は悪戯っぽく目配せしてみせ、さっき使った匙で鍋底をゆっくりかき回した。「ここからひと煮立ちさせたら出来上がるぞ」
数分後、シチューはそれぞれのカップに分けられた。一緒に手渡された黒パンの包装には系列企業のロゴがプリントされており、保管環境を反映してか、ほんの少しだけ埃っぽかった。強化人間は相変わらず食感と風味だけの食事を、淡々と口に運んだ。作り手はというと、シチューに浸したパンをうまそうにかじり、追加の一杯を注いでまた同じ動作を繰り返した。ピクニックには幸福な響きがある。というのが誘い文句の一部だった。二つ返事で了承したのには、前回の経験を踏まえ、自由人の首席隊長が何かしらしでかしていないか様子を見ておく意味合いがあった。しかし分かりやすい建前の一方で、スネイルは認めざるをえなかった──予定の日付を待ちわびて、手土産でも持って行ってやろうかと思い巡らす瞬間が、これまでの彼の日常のそこかしこに存在した。結局手ぶらでの同行となったが、代わりに嫌味も小言も基地のロッカーに置いてきている。いま舌の上でほぐれたのは、最初に入った缶入りの肉だろう。効率重視のメニューではなく口にした記憶もないが、食感から察するに、隊員には人気のありそうな品だった。彼は温かい食事のもたらす体温上昇を知覚しながら、胸にわだかまる感情が何であるかに唐突に気がついた。うまいか、とは聞かれなかったが、フロイトの期待するところは常識に基づけば容易に読み取れていた。うまいと答えてやれるほど、ヴェスパーⅡは罪悪感に慣れていなかった。
「フロイト、私には味覚がありません」
返事はなかった。手を止めるでもなく、フロイトはただじっと相手を見つめ、聞いていることを示すだけだった。告解はあくまで事務的な調子で為され、終わりまで変わらぬ調子で続いた。
「香りを感じることはできますから、おそらくさほど問題はないのでしょう……ですが、このように食事に誘っていただいても、出された料理を貴方の意図した通りに楽しむことは不可能なのです」
それまで凪いでいた崖上の野営地を、風が吹き抜けていった。ごく軟い風だったが、それでも冷気を運び寄せ、人の子の首をすくませた。強化人間は皮膚で受け取った寒さを脊椎のインプラントで閾値の下へ押し留め、危険を感じるまでもない温度低下に平然としていた。彼らは風の行く先へ顔を向けた。針葉樹の林の向こうには雪原がのっぺりと横たわり、岩場の影にはろくな成果も得られない調査拠点が自信なさげにうずくまっている。そうした拠点はあまり放置していると、知らず知らずのうちに車両や施設の片隅へ、野生動物がねぐらを作ることがあった。
「お前は楽しくなかったか?」
問いはシンプルだった。スネイルは答えに窮して、開きかけた唇はしばらく半開きのままになった。言うべき言葉は明らかだったのに、どうにも出しあぐねていた。彼はすぐに楽しいと答えてやれるほど、人付き合いにも慣れていなかった。
「まあいい。楽しくないなら申し訳ないが、俺はお前が居てくれたほうが食事がうまくなる。面倒だろうと付き合わせるから覚悟しておけ、ヴェスパーⅡ」
彼は空いた鍋と使い終わりの食器をまとめて袋へ放り込み、携帯コンロを片付けにかかった。ピクニックにお開きの雰囲気が漂い、スネイルも使っていたカップとスプーンとを袋へしまうと、椅子を畳んで小脇に抱えた。あっという間に帰り支度を済ませて歩き出すフロイトの背中には、ややくたびれたアーキバスのエンブレムが貼り付いている。部隊で気を許せる相手がお互い以外にないことを、彼らはどちらもよく理解していた。
スネイルは観念した。
「フロイト、毎日でも構いません。味などどうでもいい。貴方が私の為にあくせくしているときほど、楽しい時間はありませんからね……」