Until When

 仕事は山積みだった。ルビコニアンに占拠されたバスキュラープラントの奪還であるとか衛星砲の乗っ取りであるとか、そういう規模は大きいがシンプルなものに関しては段取りが容易にできたが、その他限りなく湧き出してくる小競り合いの処理や捕虜の処分、果ては組織内での物流の管理など、そんなことまでやらなければならないのか、という類いの雑務が日々確実に層を重ねている。フロイトは数限りなく溜まり続ける端末の情報を昇進したての第四隊長に送りつけながら、誰も居ない廊下を進んだ。このあたりの区画には番号付きの私室がまとめられており、人払いをするまでもなく、隊長格を煩わしに来る人間は居なかった。彼が人間の住まいらしい場所で休める機会はじつに三日ぶりで、ハンガーの片隅やコックピットで寝起きした体は歩くたびにどこかが痛んだ。戦況はなお混沌として連日連夜の戦いに終わりは見えず、レイヴンを英雄として担ぎ上げた解放戦線の士気は高い。物量も練度も勝っているはずのヴェスパー部隊はエースとして名の知れたヴェスパーⅠが出撃してようやく敗戦ムードから立ち直るといった具合で、基地の内外を問わず、常に嫌気が差したと言わんばかりの疲労感が漂い続けていた。重い体を引きずって突き当たりまで辿り着き、フロイトは手袋を外した。帰投してからどこにも寄らずに来たために、出で立ちはロックスミスから降りてきたそのままだった。つつがなく生体認証を済ませ、電子音に迎えられて自室に戻る。広々とした、もといがらんとした居住空間は、家主の余暇の少なさと、生活への興味の薄さを反映していた。最低限備え付けられた家具以外に何もないのは壁越え前から相変わらずだが、最近ひとつ大きな変更が加えられていた。男は残りの手袋も脱いで一緒くたにソファの上へ放り出し、新しい扉の前へ向かった。同じ手順を繰り返し、増設された小部屋へ入る。
 一歩足を踏み入れると、空気の匂いが変わった。彩度の低い照明が照らす室内はいかにも清潔で、大小の機械がベッドを囲んで並んでいる。装飾性を排除されたそれらは、ACのフレームとはまた違った機能美を備えている。伸びる様々な径の管は、あるものは互いを結び、残りはベッドの上に集まって、そこに載せられた命を漫然と生かし続けていた。
「スネイル、起きてるか?」彼はできるだけそっと、横たわる相手の瞼を持ち上げた。「起こしたなら悪かったな」
 返事はなく、強化人間の人工の瞳は微動だにせず虚空を見つめていた。フロイトはもう一方の瞼も開けてやってから、丸椅子の上に腰を落ち着けた。あの決定的な敗北の後、スネイルはザイレムの墜落地点で、ほとんど原型を留めていない乗機から奇跡的に回収された。発見が遅かったのもあり、まともに血の通わなくなった四肢を残すことはできなかったが、それでもかろうじて息があった。長い手足が根本からなくなったトルソーは、やたらとちっぽけで滑稽に見える。一度焼け爛れた皮膚には最低限の再建処置がされており、剥がれた上皮は新しい、しかし前より数段グレードの落ちる人工皮膚に変えられていた。突貫工事の顔面はこのまま微笑みでもしたら引きつれてさぞ不快だろうが、幸か不幸か、少なくともしばらくは表情を作る予定もなさそうだった。挨拶を済ませたフロイトは、装置の一つに備え付けられた画面に目をやった。そこに映る波形が何を示しているのか、医療者でも技術者でもない彼にはほとんど分からなかった。安定していることだけは分かった。隣の画面へ目を移す。波形は不規則に上下して、素人目にも意味を成しているとは言い難い。担当の医官の話によれば、ヴェスパーⅡは今やファクトリーで生産されていた部品にも劣る肉人形で、「見ての通りこの男は終わっている」とのことだった。選択を委ねられた首席隊長は尊厳についての講釈を聞き流し、次の日には人として終わった男を自室の隣で保存することを決めてしまった。技師がおずおずと差し出した希望が、彼の決定を後押ししていた。パルス逆流で焼かれた副脳がでたらめな信号を発して正常な脳活動の観測を妨げているが、第二隊長の脳はまだ生きている可能性がある。籠の中で鳥は変わらずに歌うのに、前で狂人が喚いているからそのさえずりが聞こえない、そんな具合に……という説明の都合の良さは、もはやおとぎ話の領域だった。しかしすがりつくにはいつだって、おとぎ話が丁度いい。埋め込んだデバイスが避雷針となって装着者の脳を守ったという推論も満足のいくものだ。「あまりいじると死ぬ可能性がある」ために取り除くことはできず、異常が生じた際には生体組織との接続が自動的に切られているはずだ、とかいった安全にまつわるアーキバスの保証を信じるしかなかったものの、フロイトにはもう噛み砕いた解説も、予想される展開も必要なかった。かくして彼の乏しい余暇は大半が一方的なおしゃべりに費やされることになった。
「やっとお前の大好きな再教育センターの周りが片付いたぞ。捕虜は取り返されて空っぽだが、新入生には困らんさ」開いたままの目の前に顔を向け、微笑む。「全員、さぞお前をなぶり殺しにしたかっただろうな。レイヴンがお前をやったと知らされていなければ、連中はお前の首に賞金をかけるところだ。このまま死んだと思われていたほうが都合がいいんじゃないか」
 彼はそのまま身を乗り出し、相手の胸の上へ倒れ込むように体を預けた。腕のない体を抱きしめる。簡素な前開きの衣服の布地を少しだけよけると、そこへメリークリスマスと指で書きつけた。古い映画のパロディだ。あの主人公と違ってこの男は、仮に意識があったとしても見世物にしてくれなどと頼むようなことはない。フロイトは喉の奥で小さく声をたてて笑ったが、同時に胸が詰まるのを感じた。仮に意識があったとしたら、死ぬことも許されず窓もない部屋に置き去りにされるスネイルは、あの残酷な結末をなぞっているだけなんじゃないか?
「あるいは、とっくに死んでいるのかもしれないな」
 顔を上げると、開いたままの瞼の間で、動かない瞳が漂白された光を受けてきらめいていた。最新型の眼球はほとんど損傷しなかった。身を起こして覗き込むと、以前と変わらぬ色があった。その奥にあるのが変わらぬ彼なのか空白なのかは、もはや誰にも知る術はなかった。フロイトは笑みの形のままの唇を相手の頬に押し付けて、名残惜しさを緩慢な動きに託して時間をかけて起き上がり、哀れな男の両の瞼を撫でるようにして下ろしてやった。死者に対する作法だったが、慈しみを示すには十分に適切なやり方だった。
「近いうちにまた来る。お前が楽しみにしてくれていればいいんだが」
 我が子におやすみをするように相手の額へ口づけを落としてから、彼は部屋を出ていった。訪問者を見送った照明が音もなく落ちると、部屋は完全な暗闇に飲まれてしまった。

 扉の開く音が聞こえる。期待通り瞼が無遠慮な指に押し上げられて、ようやっと視界が開けた。そこにあるのはいつも通りフロイトの顔だ。少しやつれて見えるのは気のせいだろうか。
「スネイル、起きてるか? 起こしたなら悪かったな」
 起きているに決まっている。というよりも意識レベルがどこにあるのかが曖昧になっていて、さっきまで寝ていたのか、それとも覚醒していたのか、自分でも分からない。当然だ。何をするでもなく、瞼を開けることすらできずに寝ていれば誰でもこうなる。貴方がもっと頻繁に通ってくれば、いらぬ心配になるのですよ。そんなふうに念じたところで届くはずもなく、フロイトはルーティンに戻り、私の体をさすったり、チューブの接続に不具合がないか確かめたり、シーツのしわを伸ばしたりした。
「やっとお前の大好きな再教育センターの周りが片付いたぞ。捕虜は取り返されて空っぽだが、新入生には困らんさ」それはいい報せです。猿どもには立場を分からせてやらなければ。「全員、さぞお前をなぶり殺しにしたかっただろうな。レイヴンがお前をやったと知らされていなければ、連中はお前の首に賞金をかけるところだ」
 フロイトの体が傾いて、その顔が視界から外れた。感じる重みと温度は心地よかったが、面白くもない背景のほかは、無頓着に乱れた髪くらいしか見るものがなくなった。その頭、少しは梳ったらどうなのですか。
「このまま死んだと思われていたほうが都合がいいんじゃないか」
 回された腕に力が込められる。初めて相擁したときの記憶が、ふと鮮やかに蘇った。貴方はひとが強化人間だと聞いて、やたらと強く締めてきましたね……あれに比べれば今の力のかけ方は、間違いなく進歩だと言えるでしょう。しばらく私を抱いた後、何の戯れか彼は私の服の前をはだけ、皮膚の表面に指先を滑らせはじめた。規則的なようではあるが、圧の感覚は以前よりずっと鈍くなっていてそれ以上を読み取るのは不可能だった。
「あるいは、とっくに死んでいるのかもしれないな」
 不謹慎な第一隊長の顔が近づく。これほど近くで見ていれば、私が考えていることくらい──私に思考する能力があることくらい容易に分かりそうなものだのに、特段変わった反応はなかった。ただ私の頬に温もりと、僅かな湿り気を寄越すだけだった。それから、あろうことか、私の瞼を閉じにかかった。この男はついさっき来たばかりだというのに!
「近いうちにまた来る。お前が楽しみにしてくれていればいいんだが」
 額に先程と同じように口づけが落とされた。気配が去っていき、足音が遠くなる。待て、待ってくれ。行くな、私を置いていくな。瞼の裏の赤が沈む。扉の閉まる音に続いて、沈黙が耳鳴りと連れ立ってやってきた。あの日私を焼いた恐怖が再び骨を炙り、無くした手足を虚無が蝕む。近いうちというのが明日でないことは確かだった。フロイト、フロイト! 頼むから戻ってきてくれ、ここから決して離れるな。私は力のかぎり暴れた。瞼はびくともしなかった。舌の先すら動くことはなかった。いいや、違う、そんな贅沢は言うものか。彼を長く引き止めるつもりはない、ただもう少し傍に居てほしいだけだ。網膜に残った光が渦まく。これからまた、いつまで独りでいればいい? やがて残像すらも私の元を去った。ここには何もない。私自身の他には何も。
 フロイト、行かないでくれ、フロイト……