ヴェスパーⅠは昨日突然割当てられたばかりの任務を完璧に終わらせて、病欠になった同僚を訪ねに向かった。居住区画も訓練室も通り越し、やや仰々しい二重扉を経て踏み入ったのは強化人間の隊員達が皮肉を込めてエステサロンとか呼んでいる、調整用の施設だった。基地の中でもことさら繊細な管理を要求するこの部分は空気の循環がほかの区画から独立しており、装飾性を排除した備品の形状から照明の色彩に至るまで内装は徹底的に無機質で、いかにも病院じみた清潔の印象が充満していた。前室を通り抜けた先で待ち構えていた技術者に連れられて廊下を進む間、彼は二、三の注意事項を聞き流し、前を歩く相手の観察に気を取られていた。アーキバスの強化技師はみな一様に似通った風体をしている。皮膚はまったくの無毛で、矮小な体つきと相まって大昔のフィクション上のエイリアンを彷彿とさせた。彼らはお得意様のヴェスパーⅡのこととなると瞬く間に寄り集まってきて、立てた人柱のデータをもう一度ああでもないこうでもないと精査した。それでもって、まあいいかと不敬な発言を、いかにも意味ありげな含み笑いとともに漏らすというのがお決まりの流れだった。フロイトがそれを知っているのは以前(本人には伝えずに)スネイルの調整を見学に来たからで、ヴェスパーの上位二名はそれぞれの理由で彼らに気に入られていた。
「何日かかる?」
「あと三十二時間ほど。細かい事情については貴殿に説明申し上げても無駄ですから割愛させていただきます。ただ、眼球ではなく伝導路の補助デバイスの不具合に関するちょっとした調整ですから、大部分は念の為の観察期間でしかありません。視力はもとより異常なし、つい二秒前に触れた通り、新しい処置が影響を与えることもないと請け合いましょう……無論この世に『絶対』はないという前提で」
冗長で内容の薄い返答はそれでも、質問者を納得させた。件の不具合というのはスネイル自身に起きたものではなく、いわゆる安全性の確保のために処置された隊員のうち数名が訴えたものだった。程度はどうやら様々だったが、フロイトの聞き及ぶ範囲では、彼らはみな一様に残像を見るようになったのだという。無論精神的な不調によるものという可能性は潰されていたが、噂は翼を得て飛び回り、いつのまにやらその術式の調整を受けた強化人間は亡霊を見るようになるのだ、などと囁かれるようになっていた。フロイトは第六感が手に入るならこれまで必要性を感じていなかったインプラントの埋め込み等々をぜひやってみたいものだと思ったが、それを馴染みの技師に聞いた結果、よしときなさいの一言で話が終わった。
「それでは私はここで」
言い残してさっさと行ってしまった案内役の背中をしばらく見守って、彼はようやく扉を開けた。この部屋には他よりずっと人間の住まいらしい雰囲気があって、一兵卒の居室よりずっと広い空間には、ベッドとそれに付随する医療機器のほかに、備品にしてはいくらか風合いの柔らかいソファや戸棚が設置されていた。スネイルはそうした調度のひとつに腰掛け、近未来的なカーブに沿って伸ばした身体は珍しくアーキバスとも調整とも関係のない衣服を纏っている。こざっぱりとした彩度の低い装いは、やや無骨だが均整の取れた体つきによく調和し、分厚い目隠しさえなければ企業製品のコマーシャル撮影の現場と言われても違和感なく思われる絵面だった。目隠しは最先端の医療の現場にしてはややぞんざいな、単なる布の重なりにも見えたが、よくよく観察すれば最下層のアイマスクはなるほど視覚センサの術後に用いられるまっとうな医療機器らしく、縁取りになった樹脂が顔面の凹凸に合わせて変形し、きちんと外部の光線を防いでいた。挨拶もなしに歩み寄る訪問者へ、部屋の(現時点での)主は微動だにせず、気だるげな声だけを投げかけた。
「お使いご苦労さまでした。あればかりは延期する訳にもいかず、貴方の手を煩わせるよりほかありませんでした」
「そのためのヴェスパーⅠだ」向かい合う揃いの椅子の上へ、飛び乗るようにして身を預け、くつろいで言葉を続ける。「なあ、暇だろう。ゲームでもしないか」
フロイトは返事を待たずにポケットをゴソゴソやりはじめ、ひしゃげた手帳と小ぶりのペンとを取り出した。それからちまちまとシンプルな幾何学模様を書きつける。スネイルはそれらの音に耳を傾け、終わったところでこう呟いた。
「ハングマンですか」
「よく分かったな」
「紙とペンを使ったゲームなど限られているでしょう。あとは線の長さから推測して最も可能性の高そうなものを挙げたまでです」
「なるほどな」フロイトは絞首台の下に短い線を五本引き、芝居がかった調子で言った。「それでは最初のチャレンジ」
E、とスネイルが対照的に淡白な口ぶりで答えると、ペン先は紙面をくるりと滑り、幸先がいいな、三文字目はE……とのコメントが続いた。出題者は椅子の背に大きくもたれ、次は、と催促する。時を置かずに「T」とまた素っ気無い声が響いた。窓のない部屋には最低限の環境音しか存在せず、身動きひとつの衣擦れの音も、無味乾燥な淡いグレーに彼ら二人の輪郭を描き出すには十分なほどだった。
「セオリー通りだな。でもTは外れだ。この縄の先に、いい感じに頭を描こうか」
軽い揺さぶりに効果はなく、次の回答はAだった。バランスの悪い楕円の胴体がぶら下がる。ペンを回しながら、あと一体何回くらいで当てられるかを予想した。次の候補はRで、彼はこれを二文字目に書き込んだ。もうそろ答えがばれていそうだと思った通り、アルファベットはU、Dと続いて次々に空白が埋まった。
「F」スネイルは椅子の肘掛けにもたれかかり、頬杖をついた。「フロイト。全く、他に思いつく単語はなかったのですか」
「ない。正解おめでとう、スネイル」
フロイトは律儀にFの字を入れ、回答を完成させた。ちらりと盗み見たスネイルの顔は相変わらずの鉄面皮と見えて、ほんの僅かにだが口許に笑みらしき筋肉の緊張が見て取れる。普段は目が何よりも物を言う男だったが、これはこれで悪くない。彼は紙の空いたところへまた絞首台を据え付けた。六文字の空白を紫で塗り固め、お前には忍耐が足りないと笑い、雇い主の悪口で盛り上がり、紙を替えながら土台と柱をいくつも立てた。単語選びは適当で、愛機の名前が答えられなかった一回を除いた全部が、スネイルの勝ちだった。白熱したとは言い難い展開にしかならなかったが、どちらもやめようとは言い出さず、別の遊びに変えようとすることもなかった。ゲームそのものの面白さより、日々の職務から隔絶された場所で互いの声を聞きながら過ごす事が、彼らにとっては重要だった。しばらくそうやって楽しんだ後、携帯端末のアラームがヴェスパーの二人を現実に呼び戻した。フロイトが終わらせたのはあくまでも追加の任務で、元々割り当てられていた出撃までの間の時間を稼いだに過ぎなかった。楽しめそうだと志願したもので、代わりになれる人間はおらず、予定されている拠点襲撃はあまりのんびりもできない作戦だった。
「またな、スネイル。お前が幽霊を見られなくなって残念だ」
「その前に処置したので、私は一切見ていませんよ。しかし戦闘中に残像など見ていたら、弾薬を無意味に消費する羽目になっていたかもしれませんね。良かったですよ、あの時のお試しの連中がまだ生き残っていて。二度役に立つとは殊勝なことです」
フロイトは返事代わりに笑い、ゲームに使ったページをめくっていった。できそこないの人間や空っぽの処刑台を振り返り、はじめの一枚に戻ってきた。あっけなく正解の知られた問いは、不揃いの円をぶら下げている。彼はそこに手足をつけ加えた。右腕、左腕、右脚、左脚。刑死した男の名前はその下に書いてある。それからスネイルと緊張感のない挨拶をして部屋を出ると、格納庫へと足を向けた。歩きながら既に心は次の遊びに浮かれている。並び立つ鋼の機体の間で忙しなく動き回る整備員、すれ違う帰投したばかりの隊員の、興奮冷めやらぬ大股の足取り。パイロットの残り香に嗅ぎ取ったほのかな化学臭に幻視する、補助的な装置や追加の画面がいくつも備え付けられたロックスミスのコックピット。何よりも物質的な空間を思い起こせば、心霊主義に取り憑かれた噂話の馬鹿馬鹿しさがことさらに際立った。この世に霊など存在しない。ただ、行動には結果がつきものだった。またルビコニアンを殺しにいく。