規則正しい寝息の向こうで、雨だれの音がしている。それでこれが夢だと分かった。短距離航行用の船舶における環境要素は恒常性に重きが置かれ、四季や天候の項目など含まない。私は闇の中で瞼を開き、青ざめた暗闇に目を慣らした。傍らで背を向け眠る男は雨音の届かない深さで熟睡している様子だった。身を起こして覗き込めばそれはヴェスパーの第一隊長で、いよいよ疑いようもなく夢だった。昨夜の記憶を手繰っても彼を寝具の内に迎え入れた覚えはないし、同衾するだけの親しさも――少なくともその種の親しさは――我々の間には存在しない。アイランド・フォーの比類なきエースは誰に対してもフランクに接し、新設の部隊でついた副長に対しても、気安い態度は同じだった。身の安全を他人の命で買っていると揶揄される調整前の実験にもついてきて、ガラスの向こうの光景に面白いとだけコメントした。皮肉も非難もない声色に違わず、拒絶反応で痙攣を起こす隊員を見つめる横顔に浮かぶのは、無邪気な好奇心の気配だけだった。私はその時の会話で初めて、彼が自前の器官しか持ち合わせない、純粋な人間であることを知った。ヴェスパーの理念に反するが、と前置きした上で彼は何てことのない世間話を続けた。俺を放り込むのに都合のいい場所が強化人間部隊だったんだそうだ、そこそこACに乗れる生身の人間を修理しながら使い続けるコストと、素人同然の強化人間に調整を繰り返して使えるようにするコストは、どちらもだいたい同じくらいらしい……彼の戦績は〝そこそこ〟と評するに余りあるものだったが、謙遜も嫌味もなく彼自身の偽りない自己評価であることは、飾らない口ぶりから容易に知れた。他人の評価などどうでもよく、いかなる謗りも意に介さぬ彼の振る舞いは率直に言ってすこぶる好ましかった。おのおの異なる道を歩んでいたが、目指す方向は共有しており、誰も伴わず進むことを孤独と解釈しないのも同じらしかった。私は連帯を感じるようになり(事実として同じ部隊で、協働して作戦を遂行することもあったのだから不思議ではない)、やがて連帯は愛着に変わった。認めるのは癪だったが、思い悩んで馬鹿をやるよりも早々と認めてしまって対処するほうがずっと安全なのはあらゆる種類の不具合と変わらない。時折交わす短い会話やシミュレーションでの殺し合い、立場上不可欠な連れ立っての行動といった現状に満足し、それ以上深く求める気などさらさらなかった。そのはずだった。
毛布の下で共有している空間の温もりは、大半が彼の恵んできたものだ。女の胎の中で捏ねられて、その骨を割り肉を裂いて生まれ出てきた歪で完全な肉体。パイロットスーツの厚い生地越しにさえ触れ合うことすらなかった同僚の背に手を伸ばす。状況を鑑みるに許される行為なのだろう、夢というのはご都合主義で、不条理なものだ。設定はいくらでも変えていい。私は遠慮なく、後ろから彼を抱きすくめた。うなじに鼻を寄せると、清潔な皮膚からは支給品のボディソープの香りがした。この船に乗り組んでいる身繕いに頓着しない誰とも同じもののはずなのに、なぜかひときわ甘く清涼で、陳腐な香料のもたらすそれは限りなく豊かなレイヤーを備えて瑞々しくさえ感じられる。あまりの修飾に自嘲的な笑みが溢れる。夢は自在に記憶と願望とを混ぜ合わせてその場限りの現実を作り出すが、自分がこれほど〝夢見がち〟だとは思わなかった。内心で乙女の妄想を嘲笑いつつ、温かい肉の起伏を肌で味わう。インプラントの角を欠くなだらかな背を覆う筋肉は、今でこそ安らいで柔らかな弾力に満たされているが、ひとたび力を込めれば強靭な構造体へと変化し、骨を支え臓器を守り、かかる重力の作用に抗いながら操縦桿を意のままに操らせるのだ。私の息はそこで少し熱くなった。コックピットの中にいる彼の姿を想像すると、どうしようもなく興奮する。限られた処理能力しか有さない、脆弱で安定性を欠き予測困難なエラーだらけの、それでも不可欠なパーツ。不安定性を組み込んだACは、最適化された人工知能を内蔵し、生命維持という制約を受けず造られた純粋な兵器に勝る。現状両者の間に存在する『解析しえない何か』こそ、無価値になりつつある人類という存在を弁護すべく、前世紀の人間が愛に求めたロマンなのかもしれなかった。
妄想に取り込まれかけの男は私の腕の中で寝返りを打ち、もぞもぞと身を擦り寄せてきた。顔を見れば私の憧憬はより俗っぽい地平まで降りてくる。どちらかといえば素朴で地味な部類ではあるが、顔立ち自体は整ったほうだ。成熟した骨格の硬さを和らげる親しげな印象は、気楽な笑みから生じるものと思っていたが、どうやら違っていたらしい。寝顔は無防備であどけない。起きていても見慣れたそれらを、ここで初めて、見慣れているのに気づいた形だ。無闇な親しみの正体は私が彼に抱く愛着と結びつく。警戒心なく接してくる人間は稀だった。懐いた野獣を手放せなくなるように、私はこの男が無意識に寄せる信頼を見て、確かに安堵していたのだ。
瞼が震える。呼吸が一度深くなり、長く吐き出された息が首元をくすぐった。彼は薄く目を開き、私の視線を拾って瞬きすると、もう一度私を見た。上がりきらない瞼の具合が、眠たげな声と調和する。
「スネイル……」
「フロイト」私は彼の額にかかる髪束をよけてやった。「おはようございます」
ンン、と曖昧な返事らしきものを寄越して、彼は私の体を抱いた。わずかに力を込める腕がしなやかに緊張し、私の胴へ相擁するに相応しいだけの圧を与えた。
「お前が居ると温かいな」
「逆ですよ。こちらは非戦闘時の排熱が抑えられていますから」
ぼんやりとした視線が私の顔の上を彷徨った。少し弱まった雨音に、せせらぎの音が加わっている。カーテンを開ければさぞ美しい、富裕層向けの手つかずの自然が広がっていることだろう。このアイデアの出所は先日見せられたプロモーション映像に違いない。彼らの豊かな人生のために、企業は宇宙の果てまで贄を求め、殺し屋を送り出すのだ。殺し屋の看板となった男の眼差しは、最終的にまた私の瞳へ戻ってきた。馴染み深い頬笑みの気配が面を彩り、私の心臓を掴む。
「キスしてもいいか?」
意外な提案など突飛な空想の世界には存在しない。ご勝手に、と返せばためらいなく唇が触れる。私の唇とはやや外れた位置だったが、薄く柔らかい皮膚の感触はきわめて繊細で、直接神経を撫で回されるような快感があった。我々はどちらともなくだらだらとした動きで、一体となって崩れるように体勢を変えた。フロイトはシーツの空きに肘をついて私の上に覆いかぶさり、あちこち好きについばんでいった。口元から頬へ、耳で遊んでから首筋を降りていき、ふと瞼へ移って額を祝福し、反対の頬からまたはじめに戻る。私は耐えきれず笑みを漏らした。この笑いは伝染し、フロイトもいっそう楽しげに口元を綻ばせ、私の唇に淡く歯を立てた。脳が新天地として拓かれてはじめの頃に生み出された、畸形の小人が頭をよぎる。情を交わすのに最も鋭敏な感覚器を用いるのは合理的な選択だ。私の両手の指先も、引き締まった筋肉の凹凸や細かな傷跡の流れをなぞって愉しんでいる。
「くすぐったいか」
「ええ、少し」
「俺もだ」
彼は私の首元に顔を埋めると、鎖骨の角を食み、眠そうに小さく呻いた。つられて私も欠伸を噛み殺し、ほとんど境界なく伝わってくる体温の心地よさに浸った。耳を圧す静寂を、水音が和らげる。これがなければ現実と見分けることができなかった。現実であったならまずすべきだったのはフロイトを蹴り出して自分の部屋へ帰らせることで、こんな風に睦み合うことではなかったのだから。丁度物思いがそこに至ったところで、甲高い雑音が響き、雨が止んだ。訪れた完全な静けさへ、消火設備の不備と修理完了を伝える放送が、くぐもった音質で続く。私は閉じかけた瞼を音の出そうな勢いで開いた。一部区画で判明した排水機構の不具合についての補足が、せせらぎを現実から排除する。私は眠る男の体をどけて跳ね起きると、部屋の電気が点くようにコマンドを出した。真昼の光量の下で、ヴェスパーの首席隊長が眩しげに目を擦る。
「まだ起床時間じゃない」
「フロイト、起きなさい。起きろ」
「断る。キスしたいなら明かりを消してくれ」
努めて忘れたはずの悪態が口をついて出る。羞恥が頰を熱くした。自律神経を制御するインプラントは、情動によってもたらされた心拍数と血圧の変化を異常とまでは捉えてくれない。
「私達の関係性を考えれば、こんな、ああ……クソ、どうかしている。おかしいと思わなかったのですか」
「お前こそ疑問に思わなかったのか?」
「それは……夢だと。貴方が居るはずのない場でしたので」
「夢か」彼は噛みしめるように復唱し、枕の上で頬杖をついた。「悪かったな。眠くて部屋を間違えた」
彼に飲酒の習慣はなかったはずだが、演習と任務で疲れ果てて他人の部屋へ入り、他人の寝ているベッドへ迷いなく潜り込むなどという間違いは、フロイトならありえないとは言い切れなかった。船のセキュリティは比較的短距離の輸送ということで個別の管理にはなっておらず、一定のセキュリティクリアランスさえあればどこにでも入っていけた。私は相手の咎をあげつらうための論理を探したが、結局は私の責になった。はじめに触れたのは誰だったか、から何故あんな行動に出たのか、に私の意識は塗りつぶされた。どうしてあんな馬鹿げた事を。
「それで、現実だと続きはしてくれないのか?」
「は?」
「もう少しベッドの中でいちゃついて、起きて一緒にシャワーを浴びて、それから着替えてフィーカを淹れて……恋人同士やりそうな事だ。愛を囁きあってもいい」
人が悩んでいるところへいくらなんでもふざけきった物言いに、反射的に怒りがこみ上げてくる。しかし羞恥心を薪にして燃え上がっているのは言うまでもなく、この期に及んで密かに魅力的だと評している自分が腹立たしかった。
「何が目的だ。私を侮辱したいのか、それとも金か」
「できの悪い冗談なんか言うな。金なら腐る程ある」
フロイトははずみをつけて起き上がり、幼児をなだめるような手つきで私の頭を撫でた。「ロマンティシズムは夢の中に置いてきたらしいな。俺の見立てでは甘い関係もそう悪くはなさそうだが、お前の意見は違うらしい」
「ふざけるな」肩までずれてきた手を払いのける。「貴方の意見に関しては、今さら否定する立場にありませんので偽らず申し上げたほうがいいでしょうね。ええ、同意しますとも。悪くなかった」
「なら問題ないな」
近づいてきた体を押し止める。「貴方はどうかしている」
「どうかしてるのはそっちの方だ。寝ぼけて抱いてくるなんてかわいかったぞ」
フロイトはいつも通り笑いながら顔を寄せ、軽く触れるだけのキスをした。それで私の怒りは当惑に溶け込んでしまい、放り出された私はひどく不安になった。それから諦めが音もなくやってきて、羞恥や後ろめたさといった諸々はその偉大な力の前に屈した。自棄になったと言い換えてもいい。事実を整理すれば私は目の前の男を愛していて、間抜けな勘違いで始まった戯れは両者合意の上で円満に進んだのだった。深く考えるのも既に馬鹿らしい。エースパイロットの無骨な指が頬を撫で、眇めた目元の皺には非難の影すら認められない。気を張っている必要など、はじめからどこにもなかった。
「その通りです。まったくもってどうかしている。いいでしょう、これから貴方の言う通りやりますから付き合いなさい」
私は彼の頬に口づけてから照明を落とし、急な暗さにぼんやりしている相手を毛布の下へ引きずり込んで、ベッドの中でいちゃついた。そして盛り上がりすぎる前にシャワールームへと移動して、狭い中で裸のまま触れ合った。彼がいたく興味を示した体表の接続端子は後でゆっくり見せると約束して、汗(と、それ以外)を熱い湯で洗い流した。着替えてさっぱりした我々は備え付けのドリンクサーバーからひどい味の飲み物を注ぎ、立ったままそれを啜った。揃いのジャケット越しに伝わってくる熱は、分かち合った体温が残した錯覚でしかない。それでも依然として心地よく、人と機械にまつわるロマンを思い起こさせた。会話の最中にロマンチックな言葉は現れなかったが、合間に交わされたくだらないジョークが、我々にとっての愛の囁きだった。