退屈につける薬は

 ロックスミスが単機での作戦中に敵部隊の襲撃を受けてほぼ半壊に近い状態に追い込まれたのは今からちょうど二週間ほど前のことで、そのとき砕けた左の膝から下はまだ構造の再建を繰り返す段階にあって使い物になるはずもなく、肋骨もろとも潰れた肺はテクノロジーのかけた魔法でようやっと再生の過程へ入ったばかりだった。技師は壊れた組織を最新の合金やセラミックに置換したがったが、第二隊長が人工物の埋め込みに関する一切の処置を禁じたために、ヴェスパーの首席はなんとか純人間の立場を守った。医療班の「これくらいなら治せる」という保証とともに本人の「これくらいなら治る」という言も加えて長期療養の根拠としたのだが、インプラントの使徒達は果たして、強化人間部隊のトップをいつまでも主の造りたもうた血と肉と骨と繊維のままにしておくことに何か合理的な意味があるのかと問いたげだった。ことヴェスパーⅡは自身が調整を繰り返して人の果てまで行ったような男だったから、この疑問はもっともだった。とはいえ決定は決定だった。彼らは未強化のエースを加工するのを諦めて、よりなだらかな、女の胎から生まれた技術が彼を治すのを比較解剖学の見地から観察した。
 そんな訳で病室に隔離されたヴェスパーⅠフロイトは、治療が始まってからしばらくは大人しくしていたものの、現環境から得られる要素すべてに段々と退屈しはじめるのを自覚した。リーク情報まで含んだ最新のパーツカタログを眺めても、他の隊長格の戦闘記録を繰ってみても、つまらなさには癒える気配のかけらもなく、救いを求めて話し相手に選んだ看護人はぞっとするほど起伏のない会話しかできない男だった。フロイトはこの土人形をもういいと追い払い、端末の画面に指を滑らせた。栄光ある過去の日々、アイランド・フォーのそれなりに心浮かれる袋叩きの窮地や運命的な一騎打ちの闘い、上から大目玉を食ったちょっとした遊び心と大して歯ごたえのない戦後処理といった諸々が限られた面積に押し込められて再演され、耐え難い渇望ばかりを彼に与えた。物足りなさが消えることなく破れた肺の内側に張り付いて、ギプスの中の脚をいっそう萎えさせている。何が必要かはよく分からなかった。ただ飢えていることだけが理解されていた。彼は呻き、駆けつけてこようとしたスタッフを追い出して、いっそ意識がなければ問題あるまいと布団をかぶって眠りにかかることにした。怪我人の挙動を軸にしたAIが自動的に部屋を消灯し、素っ気ない内装は暗闇に沈んだ。早速暗所に慣れてくる目を隠すように瞼を閉じる。それから長いことじっとしていたものの、いっこうに睡魔は訪れなかった。まんじりともせず時を過ごすうち、微睡みの代わりに誰だかが物理的に訪れたのが、扉の解錠を示す電子音によって知れた。セキュリティクリアランスの関係上、誰だかはもはや問いとして成立しなかった。こんなふうに足音を殺して歩いてきて、眠るフロイトの額からこめかみにかけて優しく髪を梳き、頬に手を添えて撫でてやるような人間は、疑いようもなくスネイルだった。高慢で知られる第二隊長はベッドの傍らに腰掛けたらしく、安物の丸椅子の軋む音が聞こえてくる。その手はなおも狸寝入りの怪我人をいたわり、親が子にしてやるように──あるいはひたむきな恋人が相手への崇拝を表すように、厳かな調子で繰り返し彼に触れた。それそのものの心地よさに浸りながらも、フロイトの意識は好奇心らしきものに煽り立てられ、ますます眠りから離れていった。彼は密かに集中した。甘やかな刺激の他にもうひとつ、何か決定的に好ましいものが隠れている。繊細な手つきに滲む情よりも、もっと単純で解釈を必要としないものが。
 額に口づけを受けたとき、答えは文字通り降ってきた。捉えたものを離すまいと、自分に覆いかぶさった相手の体を掴み、ぐいと思い切り引き寄せる。強化人間は狼狽えながらも流石の敏捷性と膂力を発揮し、とっさについた手を拠り所に、無理な体勢の中でも療養中の肉体へ圧力を加えないよう身を支えた。フロイトは眼の前の体と服に顔を埋め、ためらいなく息を吸い込んだ。鼻腔を満たすのは確信していた通りの匂いで、肺に流れ込む空気とともに、彼の肉体へ満足感を巡らせた。拡がった胸郭は間違いなく治療の努力をいくらか無駄にしただろうが、痛み止めが効いていた。そうだ、匂いだったのだ。スネイルからはまともな人間とは思えないほど無機質な、生物らしさの欠ける、清潔な機械じみた香りがしていた。それは背部に露出した接続用のインプラントの副産物であり、ひいては彼があらゆる器官を技師らの思い通りに替えていった結果であった。もう一度深く呼吸すれば、戦うために研ぎ澄まされた機体が、哀れな患者が長く欲していたものを恵んでくれた。出撃前、ロックスミスのコックピットに座った時の安心感。動力系が駆動しはじめたときの、これで自分はどこまでも行けるという高揚。ともに戦い、生死の境を危うく行き来する相棒への信頼と愛情。それらが一体となってフロイトの神経の上を滑り、乱れた心をよく慰めた。
「フロイト、何をしているのです」
 今の体位を維持するための筋肉の緊張からすれば存外穏やかな口調で、スネイルは疑問を口にした。字面通りの問いかけなら答えは一目瞭然だが、ここで議題となっているのは行動の理由だった。
「お前はいい匂いだ」フロイトはみたび息を吸い、うっとりとして言葉を吐いた。「小型のACという感じだ」
「そうですか。それはなによりですが、ひとまず離していただけますか。このまま続けていればいずれ貴方を潰しかねない」
 あくまで形式的な確認とともに惜しむ手を無理矢理引き剥がし、スネイルはようやく楽な姿勢に戻った。それからジャケットを脱いでサイドテーブルへ畳んで置いた。靴を脱いでベッドに上がり、その主を少しばかり押しながらなんとか隣へ寝そべって、これでいいでしょう、と締めくくった。フロイトは傷のために向き合うことこそできなかったが、首を伸ばせば目と鼻の先に恋人の膚があって、察しの良い第二隊長閣下は動けない相手の顔がちょうど首元に落ち着けるように、位置をずらしたところだった。
「ご満足ですか」
「ああ。でも──」
「一晩こうしていれば異存ないでしょう」
 フロイトは返事代わりに鼻を擦り寄せ、また大きく深呼吸した。格納庫の遠い騒音と漏れ聞こえててくる整備士たちの会話、帰投したばかりのパイロットの疲労にあふれた溜息、ひとつひとつ確かめる計器の表示、レーダーにきらめく無数の可能性。撃たれた瞬間に迫る死の顎は彼にとって選択肢の提示に過ぎなかった。適切に対応できなければ死ぬというだけの話で、ロックスミスはいつだって彼の思うように動いた。そういう日には決まってヴェスパーの次席がねぎらいに部屋を訪い、その背に並ぶ無機物の輪郭をなぞりながら夜を過ごしたものだ。隙なく調整された強化人間の強靭さと鋭敏な反射には、技術の粋を凝らして組み上げられたACと同じ趣がある。どちらも乗るには最高だった。
 スネイルの匂いには人生の愉しみが残らず含まれており、フロイトは夜じゅう夢中になってそれを楽しんだ。倦怠と苛立ちは駆逐され、満ち足りた幸福とひとつまみの官能が、眠りに落ちたあとも彼を恍惚とさせ続けていた。