この星の夜はなんと冷え込むことだろう、男は空を見上げてふうと肺を絞り、呼気に含まれる水分が見上げる高さで凝結するのを目で追った。風がそれを散らしながら無加工の肌の上を流れ、頬や鼻先や唇がひび割れそうに痛む。彼は身を震わせ、支給品のコートの襟を寄せた。常冬の星にあって、夜間の外気は刺すように寒い。それゆえ空気は澄み切っている。部隊の待機地点に用立てられた、ただそれだけの用途に存続を許されている施設の屋上はいたって殺風景な場所で、人を置くだけの何があるでもなかったので柵すらも存在していない。おそらく空調か何かの機器はあり、メンテナンスのために設置された階段と扉とが、ここへ来ることを可能にしている。天体観測でもできないかと気まぐれに外へ出てきてみたが、何のことはない、前線基地が真闇になどなりようもなく、煌々と照る照明が空の底から遥か遠くの恒星を覆い隠し、見えるのは余程輝く一等星か、もしくは侵入を試みる独立傭兵とか星外企業とかいった小蝿連中を見逃すまいと目を凝らす軌道衛星くらいのものだ。おもちゃは立派でもつまらん連中だ、と男の評価はその設置者に対し辛辣だった。機械に意思決定を委ねるなど、彼に言わせれば退屈極まりない組織だ。パターン化された戦術にはゆらぎの生じる余地もなく、人の感情を変数としないだけ強固だが、強固であるがゆえに柔軟性を欠き、人という種をあらかじめ想定された常識の中でしか生存できない弱い獣へと飼い慣らす。そこへいくと、と視点は物思いとともに天から降りて、着膨れた不明瞭なシルエットをなぞる。積雪に脱色された平面にあってあまりにも不格好な代物ではあっても、対称性が保たれているのは男が五体満足だからだった。このくらいが折り合いだ、と男は自らの評価を平均やや上くらいに定めた。男は星外企業お抱えの殺し屋で、まさに小蝿の一匹だった。戦場で身体の一部や生命の全部を失う者も少なくない中、彼は趣味と実益の両方を同量取れる道を行き、死の淵をそつなく走り抜けながら、積み重ねた成功はそっくり社に対する成果となった。あまりに優秀なために雇い主はあろうことか主の作り給うたままの人間、血と肉と骨と神経とその他諸々のパーツが父母の配偶子のみを設計図として発生した無垢の人間を強化人間部隊の最高位へ据えて、決して逸脱されない許容範囲の自由の中で好きに振る舞えるようにした。しかしひとたび戦闘機械を降りてしまえば、稀代のエースは単純な外部環境の厳しさに抗う術をもたなかった。産熱のため、身体は絶え間なく小刻みに震えた。血の温かさが行き渡らない末端から冷えていく。彼は感覚のなくなった趾を取り戻すべくそこらをうろつき始めたが、骨格筋の過度な緊張に彼の歩みはぎくしゃくした。パウダースノーを荒らしただけで終わった雪中行軍に、男の霜やけた顔へ微笑が乗った。ままならぬこのような種がよくもこんな銀河の辺境の星系までたどり着けたものだ! もう少しで声をたてて笑いだしそうなところで硬質の効果音が鼓膜を叩いた。あれは誰かがドアを開けたのを示していて、取っ手の機構は恒星間航行が可能になっても千年前とそう大差ない。安定した環境で完成された生物種が、その形態を長く保ち続けるように……
「フロイト、何をしているのです。どこを覗いても居ないかと思えばこのような場所で」
ああ、と男は、フロイトと呼ばれた男は、闖入者の姿を認めていっそう笑みを深くした。これは彼お気に入りの同僚で、均整のとれた肉体のどこもかしこも強化人間部隊の上位個体にふさわしいだけの改造を行っている、非倫理的な科学の申し子だった。スネイルなる奇妙な無脊椎動物のコールサインを持つこの次席隊長は、果たして自前の脊椎などもう既に失っているらしかった。いったい産声を上げた瞬間に彼を生かし始めた器官や組織のどれが今も生存に寄与しているのだか、眼窩の深く頬骨の高い彫像じみた造形もあるいは権力を求める男にはありがちな後付けかもしれないし、他人を無意識のうちに見下すような眼差しの冷ややかさを演出する灰色の瞳は間違いなく本来持ち得ない機能を備えた偽物だった。魂はどうか? 魂は、世話焼きだった。
「貴方の身に何かあれば作戦の進捗に影響します。さっさと室内に戻りなさい」
「たまには自分がどんな星を侵略しているか知ろうとしたっていいだろう。それに戻りたいのはやまやまなんだが、足がもつれてな」
スネイルは前半部分は無視し、それ見たことか、とでも言いたげに片目の瞼をわずかに寄せた。いかにも皮膚の薄そうな色素に乏しい肌をしていたが、極低温の外気に当てられても頬や鼻先は決して赤らんだりしなかった。この寒さに涼しい顔とはちょっとしたジョークだが、強化人間の寒冷地での適温の範囲は常人のそれよりもずっと広かった。
「スネイル、手を貸せ」分厚い手袋に覆われた右手を差し出し、フロイトはやや語気を強めた。「手を」
彼は支えとなるべく伸べられた手を取ると、しっかりと握り込んでぐいと引いた。不意打ちに崩れる体勢は彼らの周囲環境を考えれば危険だったが、強化人間の脳がこの程度のぐらつきに醜態を晒すはずもないことはフロイトもよく承知していた。ほとんど意識にも上らない反射的な挙動が転倒の過程を辿りかけた姿勢を筋力で補正する。生じた力がそこで文字通り踏み留められそうなところを、繋いだままの手をなおも引くことで慣性に流す。片足を軸に上手くいなして後ろ向きの回転へ導けば、自然彼らは美しくターンした。そのまま惰走の何歩かを踏んで止まる。フロイトはさらに相手の背を抱き寄せると、仮想の音楽に乗せて機嫌よくステップを加えた。スネイルは無抵抗で合わせながらも嫌味と叱責の間で次に言うべき言葉を迷い、瞬きひとつの時間をかけてそれら全てを引っ込めた。彼らは波間をたゆたう海藻のように揺れ、回り、歩んだ。スネイルはその場その場で適当な一歩を踏んだが、フロイトの足運びは全く秩序だった何らかの法則に従っていた。純人間のインプラントなしの脳内で流れていた曲が鼻歌として現実に供される。一定の調子が緩やかに繰り返し、どこか古臭く単純な、それでいて心地よく耳触りのいい、幸福そうな旋律だった。ひとかたまりの影が複数の光源から複雑極まる輪郭を与えられ、簡易的な暗がりと光とが入れ替わるたびに散る粉雪をきらめかせる。フロイトの足先はいよいよ限界を迎えて痛みだしたが、彼は気にせず踊り続けた。素っ気なく並ぶ機器の直方体が、グリッドに圧し潰された山々が、雪の間に黒く沈む岩肌が、星を忘れた夜が、彼らの背景を幾度となく巡った。動作の協調、遠心力、方向を別に向ければ触れ合っている部分にかかるほんの少しの圧。教養のないダンスパートナーは肉体の制御にすばらしい勘と理解があって、互いにぶつかりあうでもなく、ましてや靴を重ねることもなく、優雅な舞踏は際限なく続けていられそうだった。
とはいえ終わりは来るもので、不意に地面の感じが消えたかと思えばフロイトは自らが横抱きにされているのに気がついた。脚の下と背に感じる腕の確かさはアーキバスというより大豊製だと、内心湧き出た感想は愛社精神たくましいヴェスパーⅡには伏せておくことにして、代わりに彼はもっと簡単な賛辞を延べた。
「上手いな」
「気が済んだでしょう」
「ああ、外ではもういい」
余計な付け足しから今後も無意味な道楽に付き合わされるのは明らかだったが、ひとまず室内になることは確かだったので、スネイルは無言で受け流すことにした。問いただす意味はない。もうこれ以上の暇もなかった。夜が明ければまた仕事だった。血生臭くなる一方の戦局は鹵獲機体の数だけアーキバスに傾くようで、上層部は調子よく要望を出したし、ベイラムの息の根を止められる日も近く、独立傭兵は孤立した脅威だった。多分また踊るのだろう。相手が互いでなくても、彼らはここで踊るしかない。