ヴェスパーⅡスネイルは苛立っていた。彼にとっては普段通りの振る舞いと言えなくもなかったが、その苛立ちは普段と違い、他人に根ざしたものではなかった。周りに無能な役立たずの部下は居らず、白痴同然の上層部の要望もなく、被害者気取りの地虫どもは大人しくしていて、小賢しい駄犬の飼い主にも動きはない。残りの懸念はベイラムくらいだろうが、外回りに出ているのはヴェスパーの奇数を上から数えて三人で、作戦の成否に心煩わす必要もなかった。にもかかわらず彼の精神は安らぎに程遠い境地にあって、調整後の“
無論このままでも働けぬことはない。座席に収まってしまえばあとはスクラップ寸前の連中同様、直接の神経接続で操縦は可能だった。しかしいまのばらばらになった身体の動きをACの機体で再現することになり、ベイラムの新兵にも劣る醜態を晒すのは明らかだった。でたらめな仕立てで機械に組み込まれる旧世代型ならいざ知らず、現行の強化人間のACへの同期はまず己の肉体という乗り物を制御する正常な身体感覚を基礎として成り立っている。拳を握りしめたいところだが、こうした感情的な動作にも命令が必要だった。彼はもどかしげに息を吐いた。呼吸は制御系統が異なるからか、常より早く浅いものの、滞りなく自動操縦で行われていた。その音がいやにうるさく耳につくのは、心中に燻る焦りが、ささくれだった神経に無用な鋭敏さをもたらしているからだと、彼自身もはっきりと理解していた。ヴェスパーⅡは数多の人柱で担保した安全性という土台を失ってイフの世界に呑まれかけており、そこに紛れもない死の恐怖が──これまで他人に肩代わりさせてきた運命への、確かな怯えが潜んでいた。
数分の後、厚い鋼鉄の扉がテクノロジーの力を借りてなめらかに滑る音が、固まりかけていた室内の空気を揺らした。視線を送る前から、スネイルは闖入者誰かを知っていた。しかるべき権限で施錠した部屋へ入り込めるのは、部隊では一人だけだった。
「フロイト。戻っていたのですか」
「ああ」彼は人形のように微動だにしない相手を、まったく遠慮なく観察した。視線が床から相手の頭まで昇る。尻のあたりでしばらく留まったのは御愛嬌だった。「大した仕事じゃなかった……お前の読み通りにな。とはいえ俺が予定より早いんじゃない、お前の方が長患いになっているんだ。珍しく重症だな」
スネイルの強情はすぐさま反論を拵えたが、先ほどから脅かされている正気が、差し伸べられた同情に飛びついて余計な小細工を残らず投げ棄ててしまった。彼はお手上げとばかりに肺から息を追い出して、いくらか新鮮な空気をゆっくりと取り込んでから、いまの苦しい境地を正直に白状した。もうシンプルなひとつの命令では働けなくなった運動器へどう動けばいいか指示しなければならなくなったこと、おそらくACの制御にも支障が出るであろうこと、待てど暮らせど改善の兆しがないこと……
「あって数分程度と聞かされていたのですが。初めてですよ、このような事態は。“第八世代”の直後ですらこれほどではなかった」
フロイトは笑い、大ぶりに足を運んでスネイルの隣に立った。そして人造の組織とは無縁のエースパイロットは悩める友人の横顔を見上げ、くつろいだ口調でこう切り出した。
「この間ドーザーに聞いた話だが──おい、そんな目で見るな。たかが無害なおしゃべりだろう──いいか、そいつはコーラルのやりすぎでふらついて頭を打って以来、自分の腕が何本あるかも分からなくなってしまったそうだ。だが、寝たきりのそいつの慰めにと仲間が持ってきたラジオから、多分別のドーザーが垂れ流している海賊放送を拾ったものだろうが、
語り手は自分の携帯端末からこの区画の制御システムにアクセスし、親指を、それこそ踊るように軽快に動かして目当ての操作を行った。スピーカーから流れだしたのは複数の金管楽器が織りなすスローテンポの楽曲だった。あまりに古めかしいその節回しからは遠い時代の香りがして、少なくとも耳ざわりはよかった。過去の人類史とは縁遠く生きてきたスネイルには張りのある音色がどのような機構から発されているか分からなかったが。音楽を味わう間も惜しみ、次の手順を確かめにかかった。
「それで、どうすると」
「まずは肩の力を抜こうか。じっくり音を聞いてみろ……波があるだろう。だんだんと流れが見えてくる。それに身を任せてみろ。タイミングはお前次第だ、集中しすぎるなよ」
スネイルは返答を拵える代わりに、この指示に無言で従った。多い上に難しい注文だったが、不思議と困難は感じなかった。文化的な教養を欠く男にはまったく馴染みのない音符の群れが連れ立って通り過ぎていき、しかし彼らは男を気安く誘った。互いに肩を組み、微笑みかけ、一定の調子であたりを巡った。おそらく数種が混ざる音色にはそれぞれに際立った個性を供えており、何か共有された要素が同じ方向へ導いている。これが流れだった。スネイルはいつしか体がゆったりとしたペースで左右に振れているのを自覚した。幅こそ小さいがどちらの足も一定の座標を踏み続けていて、連なるどの骨格筋も特段の努力なしに重心を移動させていた。やり方は知っていて、希望する動作を逐一組み立てるまでもない。調整後に目覚めてからまだ一日と経っていないにも関わらず、彼は正常に近い身体感覚に懐かしさすら覚えた。彼自身には馴染みのない比喩を使えば、不和を生じて疎遠になっていた知人と、朗らかに挨拶を交わして和解したようだった。
「いい調子だ。表情が柔らかくなったな」
「ええ。ですがまだ足踏みしているだけではありませんか。先が思いやられる……」
「焦るなよ。本番はここからだ」
片手を引かれ、頭をよぎった転倒のリスクに怯えた男は、もう片方の手でとっさに手摺りを掴んだ。前腕だけが素早く振られ、叩きつけるような激しさで掌に触れた曲面を、五本の指が融通のきかない均等な強さで握り込む。時間にすれば瞬きひとつに満たない間だったが、動作からリズムは去り、スローモーションで行われればさぞぎこちなく目に映ったことだろう。肉体からも指摘があった。無理な動きに腱が痛みを訴えている。
「フロイト」
「大丈夫だ。スネイル、ほら、リラックスしろ。別に殺そうってわけじゃない」
「では何を企んでいるのです」
「音楽があって、開けた場所があって、人間が二人でやることだ。全年齢向けのな」
フロイトはまだ彼の手をとったままスネイルを見つめていた。細工の加わっていない純粋な人間の眼は、生まれ持った腺組織から適切に油分と潤いを与えられて艶があり、外部環境から受け取る以外の光は決してその色彩に混じらなかった。こんな観察を順接にして、強化人間はそれ以上問うのも咎めるのもやめにした。時間を置くと、ひとたびは遠ざかった音楽が戻るのが感じられる。そして多様な音のレイヤーに、フロイトの息づかいも重なっている。ごく穏やかで一定した生命活動の証が、人工物によって奏でられる旋律と響き合い、ふと気づけば手摺を握る指にはそれぞれに適切な角度で、適切な力のみがかけられているのだった。意識して姿勢を支える必要もない。彼はただそこに「佇んで」いた。フロイトは再び、彼の手を軽く引いた。すると体は自然と動いた。命綱にしていた樹脂の棒を手放し、相手へ向かいあった。フロイトの目が柔らかく笑みを形どり、次の一歩を促している。躊躇しながらも、スネイルは相手が後ずさるのに合わせて、また一歩進んだ。すぐに手摺りを掴めるように浮いていたものの、運動器は意図を裏切らずなめらかに駆動した。彼の歩みは心理的な作用からごく恐る恐るにはなっていたにしろ、躓くでもなく、ぎくしゃくもしていなかった。そして確かな数歩を重ねて、彼らは部屋の真ん中で足を止めた。調整による不具合など起こりようもない純人間は朗らかに声を立て、軽いハグで相手の小さな成功を祝ってやった。はたから見れば馬鹿馬鹿しい図だ、まったく健常に見える大の大人がよちよち歩きでたった数歩を移動しただけだ。
「思い出せたか?」
「それなりには」
「ならもう少し練習するといい、時間ならたっぷりある」
フロイトはまた笑い、ほんの少し姿勢を変えた。背を撫でていた手を腰のあたりで落ち着けて、緩慢な曲調に合わせて緩やかに身を揺らす。第一隊長の鼻歌からさらなるお遊びの気配を察したヴェスパーⅡは内心いくらか迷いはしたが、折角うまく動いた肉体の感覚を失うことと天秤にかけ、これもやむなしと自らを納得させて誘いに乗った。幸いにして経験のないことは問題にならなかった。最も簡易な形態のダンスには派手な振り付けも作法もいらない。流れに身を任せて揺蕩うだけだ。
「遊んでいる暇などないのですよ、フロイト……まあいいでしょう、復帰できるなら埋め合わせはいくらでもできます」
「違いない。お前が欠けたら埋め合わせられる人間はいないものな」
スネイルは小馬鹿にしたように鼻を鳴らし、冷ややかに相手を見下ろした。「貴方にしては率直な賛辞ですね」
「俺はいつも率直だろう」
ほら、の一言に次いで曲を構成していた音色のひとつが高らかに音階を駆け上がり、それに合わせて他の旋律が響き合いながら足場を作った。一山超えると伴奏に甘んじていた奏者が次々に自己主張を始め、楽団はいっそう賑やかになった。しかし彼らは互いに挑戦しあいながらも楽曲の耳触りを損なうことなく、根底で共有された何がしかによって正しく統率されていた。豊かな情感に溢れた音の波は彼らをとりまいて遣る瀬無い人生をひとときばら色に変え、なべて事もなき世の戯れに塗り替える。千切れていた無意識の動作は触れ合う掌の温もりに繋ぎあわされて、いずれは完全にその身体感覚が自己へと統合されるだろう。そしてまた働くのだ、企業に利益をもたらすために。ここで安寧に浴した男はこの種の音楽の消費者としてはまったく不適格な、抑圧者であり殺人者だった。ただし既に芸術は人工知能に冒涜され尽くしており、かつて掲げられていた文脈を漂白されたそれらは抗議することも叶わぬ幽霊で、残った魂を不本意ながらも差し出すよりほかないのだった。
楽章の終わりに踏むべき座標を取り落とした足はややもつれたが、絶望はとうに去っていた。無彩色の八面の内にささやかな笑い声が二つ。ヴェスパーⅡはもう苛立ってはいなかった。