先日補強したばかりの床を踏み、フロイトは室内へ入った。判を押したように同じ間取りの集合住宅から選んで決めた一室は、ご近所の中では比較的状態よく、少し穴を塞いでやれば、全ての部屋を使うことができた。壁紙はひび割れてめくれあがり、そこかしこに細かくなった木屑や剥がれた漆喰のかけらが散らばっている。住むにあたって多少片付けはしたものの、既に劣化した建材を置き換えることまではしなかった。彼らが仮住まいに求めるのは寝床に水が漏らないことや、風が入りこまないことだった。物置台にしか使えなくなったサイドボードの上へコートや手袋を放り出し、フロイトは最低限の軽装になってソファに腰を落ち着けた。拠点を移してから初めて買った家具らしい家具で、強化人間がその人工筋の出力を遺憾なく発揮して運び入れた思い出の品だった。どこにでも商いの場はあるもので、彼らはこれを雇い主のドーザーから値引き価格で買い付けた。新興の同業他社の製品を一機潰すごとに100COAMの値引きが入ってただヽヽ同然の値段になったが、決してただにはならなかった。スネイルは弾薬の消費を考えればむしろ高くついたと愚痴をこぼしたものの、使い心地は当時のフロイトの言葉通りだった──その価値はあった。どこから持ち込んだものやも知れない清潔な布張りのソファは、荒廃した部屋に据え付ければ一気に家庭らしさを演出してくれた。カバーをかけていまだ小綺麗さを保つ背もたれに頬を擦り寄せ、フロイトは帰宅の喜びに浸った。おお、やっぱり我が家が一番さホーム・スイート・ホーム
「どうぞ」
「助かる」差し出されたステンのカップを受け取り、彼はその中の黒い水面をそっと吹いた。湯気が退き、波立つのが見え、そして瞬く間に白く覆われる。見届けてから口をつけると、舌先にお馴染みの痛みが走った。
「あちち」
「稀代のエースパイロットが猫舌とは笑える」追加で息を吹く同居人をさも小馬鹿にしたように笑いながら、スネイルがその隣に腰掛ける。板状の端末を手にしているのは近ごろの常だった。「それほど熱くないはずですが」
「相変わらず小うるさいな。だいたい俺がエースだったのはだいぶ前の話だろう。今はしがない貧乏傭兵だ」
「よく言う。たまには貴方も端末を見なさい、依頼人が列を成していますよ」
 カップを持った手を揺らしながら、フロイトは話し相手に体を向けた。中身が縁を越えないか、気遣わしげな視線が追う。
「つまらない仕事ばかりだ。主戦場から離れた所で破壊だの陽動だの、パーティの片隅で埃を払っているだけじゃないか。向こうではもっと面白そうな事をやってる」
「その主戦場から逃げてきたのは誰です。何事もなく進めばアーキバス、ヴェスパーこそがパーティの主役だったのですよ」
 元ヴェスパーⅠはのろのろとした動きでカップに口をつけた。室内とはいえ低い気温に、フィーカは早くも冷めはじめている。彼は一口飲み下すと、隣りあう人の姿をじっと観察した。依頼の事を話題に出して気になったのか、その関心は豆粒大の文字で埋め尽くされた画面へと向けられている。はっきりした骨格は横顔の直線的な稜線に反映されており、やや窪んだ眼窩と高い頬骨の陰影が、鋭いばかりの顔立ちに頑強な印象を加えている。均整の取れた輪郭は正面から見れば完全な対称に近い。度重なる調整の過程でどの程度顔を変えたかはあえて聞いたこともなかったが、神であれ技術者であれ、創造主クリエイターと趣味が合うのは間違いなかった。毛羽立ったタートルネックの首元に見え隠れする接続端子は兵器の部品たる強化人間の象徴であり、ひいてはヴェスパー部隊の標識でもある。ルビコン3におけるアーキバス・コーポレーションの主力は、上位の部隊長が立て続けに消えたことにより大幅な改編を迫られたはずだ。漏れ聞こえてくる情報によると、誰もやりたがらなかったヴェスパーⅠは年若い番号付きの末席により継承され、欠けを補うためにまったく新しい人員が供給されてきているという。フロイトの脳裏に架空の戦闘風景が展開される。相手はデュアルネイチャーを捨てて封鎖機構の鹵獲機体に乗った元ヴェスパーⅧ。軽量逆関節のトリッキーな身軽さから一転してパワーと耐久力が格段に上がり、兵装も一つ一つがまともに食らえば致命傷たりうる強力なものが揃っているはずだ。常人であれば乗りこなすには長い訓練を必要とするが、第十世代は強化人間の最新の世代だった。フロイトの視線がスネイルの手元まで滑り落ちる。長い指は以前よりやや節くれだって、爪の周りが乾燥してささくれていた。初期の人体拡張の研究では、技術の可能性を示すのに血なまぐさい話題は用いられず、より卑近な例が好まれていた。この第八世代の強化人間も、そう調整してやりさえすれば、触れたこともないピアノをプロのピアニストのように見事に弾きこなすことができるはずだった。たとえピアノが何であるか、絶滅した魚やかつてあった文明と並列にしか認識していなくとも。芸術に関するアーカイヴが社の教育課程にあったかを、フロイトは思い出せなかった。いったい何世代前の風習をなぞったやら、彼の生家では定期的に音楽教師が訪れていて、根気強く指の運び方を教えたものだった。フロイトはそこで真摯に取り組んで得る学びの楽しさを経験したが、回想するとこうも思えた──音楽を生業として選んだその教師は、扱いにくい子息の教育を口実として金持ちの家へ潜り込み、本物の十九世紀の鍵盤楽器に親しむ機会を得たいだけだったのかもしれない。
 物思いに浸りながら、彼は端末を支えるスネイルの手に、指の根元の、関節のあたりで触れる。薄い皮膚にくるまれた硬い骨の感触には温度らしい温度もなかったが、彼はそこに温もりを感じて微笑んだ。相手から特に反応はなかったが、もとより双方向のコミュニケーションを期待するでもなく、普段から好きに振る舞って満足しているので構わなかった。
「そうだ、さっき店で……」と言いかけた台詞は尻切れに終わってしまった。それは貰ってきた冊子の最後の置き場所を思い出したからで、MTを隠した輸送機の残骸は、わざわざ取りに戻るには少しばかり遠すぎた。使う労力も犯すリスクも燃料費も、古いカタログ一冊が提供できる話の種では到底割に合わなかった。とはいえ、手元にないと口惜しさが募る。思い出を語るにはぴったりの品だった。彼は唐突な沈黙を訝しむ相手の眼差しをいったん横目に受けてから、その肩に頭を預けた。傾いた視界では端末の文字の流れが止まり、ピントの外れた背景では、色褪せた壁掛けの写真たちが、去りし年月を伝えている。時は流れて止まることはないのだと、そんなお決まりの文句でも言いたげに。
「さっき店でベイラムのカタログを貰ったんだが、コックピットに忘れてきた。昔のやつだが状態はいい。紙カタログだ……確かもう作っていないんだっけな。紙は完成された発明だな、デジタルデータは百年も経てば消え失せるが、紙は千年きれいに残る。石ならもっと残るが、紙を千枚束ねても石一枚の重さに満たない」
「何をぶつくさ言っているのです」彼はため息をつき、もう集中できなくなった仕事をソファの肘掛けと体の間に押し込んだ。
「ACはどれだけ残ると思う?」
 問いかけとともに緩やかに指を絡ませる。無理な方向へ引っ張られた指は少ししなって、楽になるように自然と曲げられた。前の拠点で寝込みを襲われた際に負った傷のせいで、わずかに歪んだ薬指。添え木を当てておく暇すらなかったせいで、結局綺麗に治らなかった。
「条件によりますが、期待するほど長くは持たないでしょうね。大きすぎてそのままの構造を維持できません。ルビコンのような土地ならなおさら、誰かに見つかるたびにパーツを取られていきますよ」
「なら、強化人間はどうだ。肉はすぐ腐るだろうが、骨になったらどちらが早く塵に変わると思う」
「私はかなり長く残りますよ。金属部分は白金が主ですし」
「金属部分だって? そんなちっぽけなかけらをお前だって言えるなら負けを認めてやってもいい」
 フロイトは笑い、揺れた拍子に腕を滑り込ませて、手を繋ぐのに都合良く位置を調整した。やっと向かい合わせになった手のひらを合わせると、まだ空気に冷まされていない体温を、錯覚でなく分かち合うことができた。指を組み合わせて戯れる様子は、奇妙な形の異星人が求愛に身をくねらせているようにも見える。皮膚の色調はベースから異なっていて、それが意味を為した時代から受け継がれてきた遺伝子の、種々の配合が頭をよぎった。取り合わせがどうであれ、肉体の彩りは今やまとまった金とまともなコネさえあればいくらでも変えてしまえるものだった。安全に気を使わなければそれら二つの障壁も崩れ、変身という事象は技術によって、かくもなだらかにその神秘性を奪われていた。ACを組み換えるのとどちらが簡単なのだろう? フロイトは買い物の成果を思い、場所による、と結論づけた。いずれにせよルビコンではまともな医者もパーツも見つからない。
「やはり冷えましたね」
 組んだ手にやんわりと力が込められる。もうそんなに冷えてない、と言いかけたフロイトはそれを無意味な声に誤魔化して、気遣いを見せる相手の肩へいっそう強く身を寄せた。昔なら検査にかけられたかもしれないが、ここに医療班はなく、機器も技術者も居なかった。代わりにあるのは何の役にも立たない思いやりとかいった類のもので、ただ単に心地よかった。
「次はヘルメットか、せめて帽子くらい被りなさい。凍傷になって耳介が落ちれば、聴力に影響しますよ」
「そうだな。温めてくれよ」
「お断りです。それよりも熱いシャワーを浴びたほうが効率よく温まります」
「熱いシャワー?」彼ははたと顔を上げた。「ガス以外で湯を沸かす方法なんてあったか? 水だってそんなには使えないだろ」
「この間ベイラムのMTから剥がしてきたジェネレータがあったでしょう。配線を終わらせておきましたから、しばらくは贅沢の許される身分でいられますよ」
 配線を終わらせて、のたった一言で済まされた作業の量も質も、それで済まないことはフロイトにも分かっていた。ひっきりなしに舞い込む依頼を捌きながら、死んだ建物の神経と血管とを繋いで血を通わせる。もはや死霊術ネクロマンシーと称して差し支えないこの業は、企業の庇護から離れた強化人間が身につけた、生活の知恵のひとつだった。二人揃って倉庫の棚をひっくり返し、設備図面を掘り出したのはまだ記憶に新しい。暖房こそ外から持ち込むよりほかなかったものの、ただの人間がひと月暮らして病みもせず寝起きしてきちんと休息できる住まいとなったこの廃屋の一室は、次の移動を早くも惜しみ始める程に居心地良く仕上がってきていた。だが永住するには余りにも儚い。タレットもなければ分厚い防壁も存在せず、ソングバードのさえずりひとつで粉々になるレベルの防衛力しかないのだ。巨大企業の背信者には敵が多く、移動は不定期に、できるだけ素早く行われなければならなかった。フロイトは相棒の穏やかな眼差しを斜めになった視界に捉え、労いの言葉には微笑みで報いてやった。ごく淡いが同じものが返ってくる。彼に対するスネイルのふるまいにはいつだって、人間らしい慈しみと愛情がふんだんに込められていた。不思議だった。再教育センターでのヴェスパーⅡの所業はルビコニアンに憎しみを植え付けるに余りあるもので、この男の差別主義的な倫理観は、不法移民の子孫らを、いくらでも使い捨てできる研究資材に変えてしまって平然としていた。同じ人間であるというのに、こうも扱いが違うのは……と、非人道的な実験の助手を長く努めてきたフロイトは、とりとめなく思いを巡らせた。人類史が幾度となく経験してきた過ちは、闘争に根ざしている。人は本来、人を殺し続けられるようにはできていないのだ。だが罪悪感というものは、雑であっても何となく理由付けしてやれば、いとも簡単に薄れてしまう。彼我の間に境界線を引き、その無限の階調のグレーに赦しを得て殺戮は正当化される。あるいは特定のレッテルが良心の麻酔として機能し、虫を潰すのと何ら変わりない気軽さで彼らの命を扱わせるのだ。どうやら元第二隊長閣下には他人に関する三種類の分類があるらしかった。死ぬべき、死んでもいい、死んでほしくない。三つ目に括られる人間は、自惚れを込みにしても、知る限り──少なくとも現在は、フロイト一人を数えるのみだった。フロイトは死ぬべきと死んでもいいとされた命全てを軽んじて、人でなしの恋人の頬に口づけた。彼自身はおよそ全ての人類を面白いの一言に放り込むが、たったひとつ別の分類があって、当てはまるのは実際、一人だけだった。