相棒がシャワーを浴びている間、スネイルはやりかけにしていた依頼の整理に戻ることにした。端末に表示されるのはお馴染みのラインナップだ。前にも加勢を頼んできた独立傭兵、商売敵に痛手を与えたいドーザー、新規参入の中小企業。アーキバスは傘下の企業がこの裏切り者の元番号付き依頼をかけないよう徹底させているようだったが、ベイラムは無知を装ってばら撒きの依頼を投げてくることが珍しくなくなってきた。近頃では解放戦線までもが依頼主のリストに名を連ねている。内部でどのような葛藤があったかは定かでないが、作戦内容を伝える担当者の声は常に、どこかこわばって角があった。報酬は企業のそれよりずっと安価であるにも関わらず、任務自体は多対一を強いられる危険なものが多かった。捨て駒として死ねと願われているのは明らかだったが、フロイトはこれをくだらないとこき下ろしてはいても、一人でどう立ち回ってもお咎めなしであるところを気に入ってはいるようだった。楽しいから積極的に受けてくれ、という言葉の裏にどこか共感能の欠如を感じないでもなかったが、スネイルはもはや反論も忠告もせずにおいた。お抱えのエースがそう望むなら断る理由も特にない。彼はソファの上で居住まいを正し、幾つかの依頼内容を確認した。戦局は長く膠着状態にあったものの、ここにきて着実に変化しはじめている。古巣の同僚達は大幅に遅延したウォッチポイント・アルファの探査へ本格的に乗り出したらしく、直接の情報が入ってこずとも対抗する企業による妨害工作の依頼内容を見ればその輪郭は自然と浮き上がってきた。となれば傍観者でいられるのも今のうちだろう。レイヴンがそうであったように、優秀なAC乗りは自然と物事の中心へと押しやられていくものだ。スネイルは憂鬱の雲が立ち込めるのを煩わしく思いながら、報酬と危険性のつり合いの取れた依頼を二つ選んで受諾した。どちらもある程度組織だった傭兵グループからのもので、激戦区に振り分けた主力の穴を埋める形になる。電源の落ちた端末に映る苦りきった己の顔に彼はどことなく嫌な気配を感じ取ったが、その源に考え至る前にバスルームの方から同居人が顔を出し、物思いはあっけなく霧散してしまった。
「さっぱりした」と肌着姿のフロイトは濡れた頭髪をタオルで揉みながら、スネイルに向かって笑いかけた。「なあ、工務店をやるのはどうだ? きっとそこそこ需要がある」
「藪から棒に何ですか。くだらない」
「くだらないか? お前は腕がいいし、たぶんここで生活しようとしている奴は増えてるだろう」
フロイトは遠慮なくスネイルの隣に腰を下ろした。ソファへ落ちた元エースの身体からは石鹸の香りがして、湿り気がそれをほのかな熱とともに拡散している。こんな死骸のような廃虚で十分に温まったのは彼の言う通り施工者の“腕がいい”ことの証左にほかならず、上気した肌から立ちのぼる清潔の印象はまさしく生活の営みそのものだった。彼らはここで暮らしている。コーラルの輝きに引き寄せられた大勢の羽虫達が、宿舎やこれと大差なくぼろになった建造物の片隅で、生活を成り立たせるのと同じように。スネイルは配管工に感謝する名もなき傭兵たちの姿を頭から追い払いながら、相手を黙らせるのにぴったりの文句を探した。
「ロックスミスを売り払って資金にするなら考えます」
「いいぞ。お前のオープンフェイスも売っぱらって、それから中古のACを買おう。指までしっかり制御できるやつがいいな。ちゃんとした家を建ててみるか。見栄えがよくて機能的で……宣伝文句はこうだ、生活の質はまず住まいから」
まだ十分に乾いていない頭が寄りかかり、水滴が幾つかセーターの肩に染みた。他の誰にも許したことはないし許すつもりもないきわめて人間的なふるまいを、スネイルは無言のまま受け入れた。この男に限って、そうした馴れ合いの対象にされるのは心地良かった。しかしながら、やや胸の詰まるような感覚を覚えるのも事実だった──語られる夢物語のなんと滑稽なことだろう、実現可能性の低い新生活の有り様が平穏であればあるほど、現実との落差は脱走者の強化人間に、どこまでも不愉快を生じさせた。
「それで犬を飼って、温室に放すんだ。どう思う?」
「つまらない依頼を既に二つ受けているところですが、貴方のことだ、もう一つくらいこなせるでしょう。輸送車の護衛と試作機の破壊、どちらにしますか」
「試作機」
「そう答えると思いましたよ」
「遠い未来の話はお気に召さないらしいな」
ここでようやく、会話する二人の視線が重なった。片方は修繕された壁の陰影に見ていた空想の大地の起伏から離れ、もう片方はディスプレイに表示された報酬の欄に並ぶ数字から離れた。
「当たり前でしょう。何が遠い未来か、お遊びの妄想を未来とは言わない」彼は苛立ちまぎれに相手の額を指先で小突いた。「現実の話をするなら、私に残されているのは長く見積もってもせいぜいあと一年程度です。旧世代型のようにACの生命維持装置に頼りながらコックピットで生きていくなど……」
「そこまでにしておけ。お前にしては珍しいな、悲観的すぎる」
「貴方が楽観的すぎるんですよ。恐れる能力を欠いていると言い換えてもいい。我々がどれほど貧しいか理解しているのですか。これでは機体を今のまま維持していくのも危うい。現にレーザーブレードの調整機構はダウングレードした部品への置換を余儀なくされているではありませんか。貴方が何日いじくり回しても出力が安定しませんでしたね」
「癖は掴んだから問題ない。ピットクルー完備の至れり尽くせりな環境もいいが、こういうのも乗り始めの頃を思い出せて楽しい」
楽天家は言葉通りに愉快げな笑みを浮かべ、返ってきた小言を曖昧なハミングとともに受け流した。会話はうやむやになった末に区切りがつき、端末は脇に置かれた。そうして彼らはしばらく益のない、だからこそ無害な話題について言葉を交わし、やがてどちらからともなく無言になった。言葉の尽きた場ではありがちな気まずさが生じることもなく、二人とも目を閉じ、互いの肉体の接触面で生じる圧に意識を傾けていた。どちらもまだ生きていて、呼吸するたび胸郭が拡がって、ごく安定した周期で互いを押しあっていた。フロイトはふと、勝手に終わらせた話を蒸し返したくなった。走馬灯のような短い想像の中で彼は、俺にも恐れるものはある、とほとんど泣き言の調子で語り始めていた。だのに、扁桃体に異常があればエースにはなれなかっただろう、などと冗談で本音を塗り潰したばかりに、鼻で笑われて終わってしまった。違う、と彼は身動ぎひとつ伴わぬ沈黙のうちに妄想を片付けて、大きな溜息をひとつついた。瞼を開いて現実に戻る。フロイトは注意を引かれたらしい相手の息遣いを額の端で感じながら、壁に走る小さなひび割れに目を留めた。果たしてこのひび割れは、コーラル掘削のために入植した労働者達がここで人生を組み立てていた頃にも存在していたものだろうか?
「俺にも恐れるものはある。お前の居ない未来は考えたくない」
「何故ですか」
返された問いは大した間も置かず、声も平坦なトーンだった。理由は純人間の頭の中にいくらでも浮かんだが、いずれも舌の上で形を成す前に溶けていった。人手の要が愛着に混じり、孤独の影が退屈を覆う。そして彼はあの日の馬鹿げた提案を裏打ちしていたのは何だったかを考えた。企業を離れる選択肢は氷原での合同作戦の直後に芽生えたものだ。アーキバスから出向した現場監督は技研の兵器が放出した高濃度のコーラルに酩酊していて、戯れ言にも容易に惑わされそうだった。作戦に参加したのはいずれも汚染に耐えうる強化人間で、記録を見聞きする限り、誰も彼もが楽しげだった。不参加だったパイロットは現在の時制から当時の自身を俯瞰し、抱いていた情動を輪に入りそびれた子供の嫉妬に帰納した。それと不安にも。お前に置いていかれそうだと、こんな小さな不安がヴェスパーの最上位二人を崩れかけの廃墟の一室まで連れてきたのだ。笑いが出そうなくらいには滅茶苦茶な話を伝えるべきか考えあぐねた末、彼は拾い上げた言葉を結局すべて捨ててしまうことにした。フロイトは相手の首元に鼻先を埋めると、大きく呼吸して肺いっぱいに空気を流した。昔よりずっと人らしくなった強化人間の匂いは、先ほど楽しんだフィーカの安い豆の香りを多分に含んでほろ苦い。そのまま体勢が崩れるに任せ、二人はソファの上に横たわった。奇遇にも高周波の風切り音が窓の外のどこかで閃いて、伏せるべき状況にはなっていた。小雪を散らし始めた窓の向こうに機影は見当たらなかったが、用心するに越したことはない。彼らは重なり合ったまま、息を潜めるに適切である以上の時間、じっとしていた。やがて掻き乱された大気は元の通りの慎ましさを取り戻したが、廃墟の中の裏切り者達はソファに転がって身を起こそうともしなかった。スネイルの手は洗いたての元エースの後頭部に置かれ、指先は湿った髪の間で緩く遊んでいた。昔よりずっと弱々しい強化人間の慈しみは、撫でる頭蓋の奥深くに埋まったままの後悔を少しずつ掘り出して、ルビコンⅢの冷えきった空気に晒した。初めて異常が現れたときの情景がフロイトの脳裏に浮かび、続く場面が作戦記録でも眺めるように鮮明に思い出されていった。彼は立つこともままならなくなった強化人間を半ば背負うようにして支えながら潜伏先のグリッドの点検用通路を進み、相手はというと、力の入らない四肢と格闘しながらも「三人旅にすればよかったかな」という冗談に青筋立てる余裕があって、刺々しい口調と山程の嫌味には、こんな所で不具合を起こす自身への怒りが滲んでいた。
アーキバスを離脱するには社との接続を切る必要があった。知己の技術者は作業の終わりに自分を殺すようにと言い、当時は規格外の出力を難なく発揮できた第二隊長閣下に首の骨を折られて死んだ。お待ちしております、よい旅を。遺された言葉の意味を彼らが理解できたのはずっと後のことで、知ったからとて何ができるでもなかった。機能不全の強化人間は間歇的な四肢麻痺の発作に悩まされるようになった。寝たきりには至らないものの、躓くことなく満足に歩き回るのも難しく、ときにはカップひとつを持ち上げるような日常的な動作にさえ苦労する。フロイトは今でも解決法──つまるところ最新かつ重改造の、それも企業製の強化人間を扱えるまっとうな闇医者を探していたが、スネイルはもうそんな珍獣を求めてグリッドをうろつくのにはさほど興味がないようで、近頃は眼の前の差し迫った生活上の要求と、貯めた金の額にかかずらってばかりいた。言葉は丸くなり、振る舞いも穏やかだった。健康体の純人間にはそれが抗うことをやめた病者の諦めに等しく感じられ、連れ合いを独りにする準備をされているのだと思えてならなかった。AC乗りとして長く戦場で過ごしたエースパイロットにとって、死とは突然に訪れるものであり、馴染み深くさえあった。無慈悲で後腐れなく、どれほど親しく付き合った僚友であろうと呼び起こすのは悲嘆ではなく純粋な興味で、思い出はしばしば次の戦闘を生き延びる為の糧になった。だが予告された別れというのは、どうにも居心地が悪かった。可塑性も生産性もなく、行き先が狭められていくだけの道のりだ。彼は時折訪れるそんな息苦しさの中で、いつしか着地点がどこにあるかを悟っていた。とうの昔に失われた生活を惜しむのはかつて邸宅を訪れていた音楽教師のそれと同じ類いの袋小路で、最もあり得そうな本当の未来だった。
いつの間にか雲は地平から退いていたらしい。陽の色が変わってきたのを、フロイトは身を預けた相手の着衣の隙間から窺い知った。そしてきちんと着込まないまま過ごした我が身に意識を向けて、風邪を引く前に温まり直さなければ、と思った。