昔から高いところに登るのが好きだった。親も使用人も屋根の上の俺を目にした瞬間に、遠くからでも分かるくらいに青ざめて、いつもきまった台詞を口にしたものだ。
「危ないから降りてきなさい」
そう、まさにそれだ。ロックスミスの肩の上でこんなノスタルジアに浸るとは予想だにしていなかった。スネイルは相変わらずの仏頂面に相変わらずの呆れを滲ませて、搭乗用のキャットウォークからこちらをじっと見つめている。目を離さずにいれば俺が落ちずに済むとでも思っていそうなその視線は、やはり遠い昔浴びたものとそっくり同じで、なんともいえずこそばゆい。寝転がったまま返事する。振った手も合わせてさぞかし相手を苛立たせるだろう。
「断る。危ないから降りてこいというのが気に入らない。危険を理由にやめさせるなら、今後一切俺を出撃させられなくなるな」
第二隊長閣下の肩がはっきりと上下する。おおかた溜息でもついたか、でなければ肩をすくめてみせたのだろう。ここからだとやや大きめの人形のサイズ感で、過剰なコミカルさで演出されている。この男は時折、自らの感情を分かりやすく表現してみせることがあった。戯画化されたふるまいには〝お前にも分かるようにしてやっている〟という態度が見えないでもなかったが、それがこいつなりの優しさなのだと気づいてからは不愉快も覚えない。俺がもともと他人の挙動に左右される種類の人間でないのを差し引いても、それとなく差し出される思いやりは心地よかった。スネイルはしばらく俺の呑気な観察に晒されていたが、急にどこか決然とした調子で声を張り上げた。
「前々から思っていたことですが、貴方は図体ばかり大きくなって、心の方は幼児から成長しなかったようですね。いいでしょう、そう屁理屈を捏ねるならこちらにも考えがある」
考えというのが何かは二秒たらずで判明した。スネイルは通路を移動し、機体の陰に隠れるかたちで一時俺の視界から消えた。明らかな踏み切りの音につられて覗き込めば、流線型の板金に刻まれたささやかな凹凸を足がかりに、徐々にこちらへ向かってくるところだった。強化人間が見事な登攀を披露するのを、俺は感嘆しきりで見守った。顔色一つ変えずに機体の上面へ手をかけたスネイルに拍手してやると、当然ながら軽蔑の眼差しが返ってきた。誰のせいで、とでも言いたげだし、言いたげなだけでなく実際にそう口にした。
「誰のせいでこんな曲芸をする羽目になったと思っているのですか。ここまで来た以上は無理にでも貴方をここから下ろしますよ」
「折角来たんだからゆっくりしていけ。よっと」
勢いをつけて立ち上がると、向けられる眼差しには明らかに心配の色が乗った。親よりもむしろ執事頭の老爺のそれに似て、愛して気にかけている存在に関する最悪の想像に曇らされた瞳の色は、俺の自尊心を十分に満足させてくれた。愛して、気にかけている。ベッドの上での甘いさえずりよりもずっと素朴で温かな執着は、会社勤めの殺し屋には得難い類の報酬だった。肉体関係の付随しない愛情は主に子供の為の献身だが、なるほど図体のでかい幼児であるところのフロイトくんには最も必要なものだろう。現にこうしてゆるやかな傾斜のついた高所で、落ちる前に迎えに来てもらって危うく命が助かったのだから……と、ここまで考えてから俺はスネイルの足元を見、背景としてぼやけていた機体の向こうへピントを合わせた。格納庫は広い。ACはどちらかといえば小ぶりな兵器ではあったが、それでも落ちれば何割かの確率で死ねるくらいの高さはあった。骨肉をより頑丈に入れ替えた強化人間でも、打ちどころが悪ければ死ぬだろう。ヴェスパーⅡが首を折るのは再教育センターで最低未満の扱いを受ける全ての元人間が望みそうな展開だが、俺は何か奇妙な寒気のようなものが、背筋をそろりと這い登るのを感じた。そいつが意識に触れるたび、逃げ出したくなるような居心地の悪さと焦りとがいっせいに指先まで駆け巡り、どん突きをターンして脊髄まで戻った。慣れない感覚は幸い運動機能に支障を及ぼさず、俺はハッチの近くまで確かな足取りでたどり着くと、人間が居るべき正規のルート、搭乗用の通路へと降り立った。靴底が金属を叩く鈍い音がいやに大きく響き渡る。強化人間がしなやかな身のこなしで危なげなく後に続いた。肉体の重量を考えれば控えめな音量で彩られた着地の瞬間、心臓のあたりがじわじわ疼き、詰めていた息が漏れた。明確な意図もなく自然とまろび出た溜息をもって、俺はさっきの名状しがたい寒気に該当するのがいったいどの単語なのか、ようやっと合点がいった。
「怖かった」
「ならば最初からしなければいいだけでしょう。まさか降りられなかったなどと言うつもりですか、あれほど余裕綽々の態度で──」
「違う、お前が落ちて死んだりしないかと怖かった」
均一で、均等の、左右対称の眉が片側だけ僅かに上がった。怪訝そうな雰囲気はこちらの意図を測りかねている証だ。お互い何もしないまま時間が過ぎていく。沈黙が熟す前に、どちらともなく歩きだした。空気の味が少し渋い。
「待機中に死ぬなど、馬鹿馬鹿しいことこの上ない」
律儀に会話を続けたスネイルに、俺は不義理をして何も答えなかった。心臓が浮かれたテンポで拍動していて、まったくそれどころではない状態だった。俺は青ざめていたのかもしれない。危ないから気をつけろと叫びたがったり、どうか不幸が起きないようにと祈るような視線を向けていたのかも。早足の心拍数に合わせて息があがる。知の歓びは身体を満たし、前を行く背中に無言のまま感嘆符が送られた。愛して気にかけている存在に関する最悪の想像、そうか、そうだったか、これが怖いということか。