「なあ、前々から不思議だったんだが、お前、好きで食べてるのか? それ」
問いかけとともにフォークの先が向けられる。根本はヴェスパーの首席隊長の左手へ続いていて、それは見るも痛々しい有り様だった。金属片をつまむ3本の指にはまだ包帯が巻かれ、薬指と小指はまとめて固定されている。反対の腕は完全にギプスに覆われており、古典的なやり方で首からつり下げられていた。食堂の賑わいにそぐわない怪我人そのものの姿だが、病室での静養に耐えられずほっつき歩いているヴェスパーⅠをあえて監獄へ連れ戻そうという人間は、少なくともルビコンの駐留部隊には存在しなかった。彼はガーゼと包帯だらけの顔に人懐っこい笑みを浮かべて、先程の不躾な質問を補足するように、フォークの先を小さく揺らした。標的にされるのに慣れきった第二隊長は、鈍色のパウチの袋を開けながら平然と回答した。
「ええ、そうですが」
「いつも通り最悪の見た目だな」
ステンのプレートに流れ込む半固形の完全食は、食欲を根こそぎ萎えさせてしまうような、くすんだ薄緑色をしている。フロイトはピンクがかってグロテスクだった前回とどちらがましかを少し悩み、どちらも同じと結論づけた。もちろん彼もヴェスパーの一員としてこの手の製品を試したことはあったが、うがい薬に似た風味と硬めのゼリーのような食感はともかく、なぜか塩気を含んだ甘苦い味わいは、餓死寸前でも御免被りたいような代物だった。舌の上に蘇りかけたひどい味をなんとか記憶の底に押し戻しながら、自分のプレートの上の主菜にフォークを突き刺す。肉肉しい弾力が手応えとして伝わった。内訳としては火を入れて固められた蛋白質のペーストと遺伝子操作された植物、それからとろみをつけたアミノ酸と香料と色素の混合物といった具合だったが、香ばしく甘辛いソースを絡めたソイハンバーグは食に興味の薄い強化人間の間でも人気のあるメニューで、付け合わせの野菜は異なる味と食感が楽しめるよう、可食部の異なる二種の植物が提供されていた。管理責任者が変わって基地に調理場を設置するようになってから、食事は大多数の――主に非戦闘員の――人員にとって楽しみな時間になった。改装されて広々とした部屋はカフェテリア然として居心地よく、アーキバスが社の歯車へ提供する福利厚生の中ではかなり血の通った設備だといえた。整備畑の人間と結託して前任者の更迭を要求した一人でもあるヴェスパーⅠは、刺したままのフォークを左右に揺さぶって、改善された糧食を雑に切り分けにかかった。そして一口大になったものを頬張り、ゆっくりと咀嚼する。じわりと広がる塩味にはしっかりと風味付けがされており、歯ざわりも申し分ない。飲み込んだ後に残るのはえぐみではなく残り香であって、次の一口を期待して唾液がわいてくるのが分かる。黙々と食べ進める間も、彼はスネイルから目を離さなかった。作り物のような男が、淀みない所作で皿の上の物体をすくい、口に入れて、噛む。筋肉の緊張と顎関節の運動がループ再生されるビデオのように正確に繰り返され、喉仏が上下した。それをもう一回。もう一度。もう一周……
「なんなんですか。鬱陶しいにも程がある」
「お前が人間かどうか疑ってる。昨日抱いたときには確かに人間だったが」
「フロイト、貴方はむしろ私が人間でなかった方が喜んだと思いますよ」冷ややかな声色には普段通りの皮肉らしい調子が乗っていた。
「むくれるなよ。かわいいやつだ……俺は単に、食の喜びを全く持ち合わせないというのがどんな気分か想像したいだけだ。いいか、そんなものは人間の食事じゃない。餌か、肥料みたいなものだぞ。いっそ固形燃料と呼んでも構わない」
「貴方がどう中傷しようと、好みの問題です。どんな気分もなにも、全くの無ですよ」と、彼はまた一粒飲み下してからこう付け加えた。「強いて言えば効率がいい」
「口に入ればなんでもいいってわけか。強化人間というのは皆が皆そうではないだろう、俺の知る限りお前以外そんなもの好き好んで食べている奴はいない。メーテルリンクだって今は普通の飯を食ってる」
ああそうですか、と締めくくられた会話はしばらくとりとめもない世間話に継がれていった。食事自体も終わりに近づいていたが、フロイトの興味はいまだ非人道的な完全食にあって、強化人間の寸分の狂いなく配置された歯列の間をさまよっていた。ある特定の調整処置は味覚を含めた知覚神経系の機能を部分的に喪失する副作用があるとかいう噂を耳にしてはいたが、瀬踏みには人一倍熱心なスネイルに限って、デメリットのある手術など受けているはずもない。味覚はともかく、その他は……と、彼はぼんやりしたままパンをちぎりながら、ふとスネイルの背後に目をやった。プラスチックのトレイを手にしたホーキンスが、程よい位置の空席を求めて歩いている。時間をずらせばそうでもないが、いまの時間は特に混み合っていて、番号付きといえどもなかなか相席を避けることはできなさそうだった。人徳と実力で知られる第五隊長なら隊員はそれを栄誉に感じることだろうが、彼自身はというと、気を使わせるのも悪いからと隅の方やカウンター席を好んでいた。どれも埋まっている。フロイトは片手を上げて同僚を呼び、長椅子の上でずれて一人分の空きを作った。
「ホーキンス、いい所に現れたな」
「悪いね。いつもは早く来るんだが、倉庫の方で少しばかり問題が起きてしまったんだよ。今を逃すと夜まで食べ損ねるかの瀬戸際で」
「それでも科学に頼ろうとは思わないよな」フロイトの視線は置かれたトレイの上を滑った。銀色のプレートにはドレッシングをかけた生野菜とフライが乗っている。それにピラフと、美味しそうなオレンジ色をしたまともなゼリー。
「科学?」人の良さそうな顔に、明確な疑問符が浮かぶ。「というと?」
「フロイトの言うことは気にしなくていい。出撃できず暇をもて余すあまり私をおもちゃにしているだけです」
「そうだなスネイル、その通りだ。あんまり暇なんで、俺達がだいぶ前に味気ないペーストとかゴムの切れっ端みたいな蛋白質を卒業したのに、こいつがいつまでもこの最低のメニューを継続しているのが気になってな」
「ああ、そんなことか。簡単だよ、それはもちろん──」
「もういい、ホーキンス、黙りなさい。黙らなければ貴方を再教育センターへ送ります」
フロイトはすかさず机の上に身を乗り出し、不自由な腕の存在感で、向かい側の第二隊長の刺すような視線から部下を庇うように陣取った。「ヴェスパーⅤ、首席隊長命令だ。これは先刻出された下位の命令に優越する」
ホーキンスは困ったような笑みを浮かべて、コミカルなやり方で肩をすくめてみせた。「悪いね、閣下。ヴェスパーⅠには逆らえない……では首席隊長、申しあげよう。この男が味気ないゼリーやペーストに固執するのは、好き嫌いが激しすぎるからさ」
スネイルは苦りきった顔で座席の背もたれに寄りかかった。そんな様子はちらと見るだけにして、フロイトはぎくしゃくとした動きで、他人の皿から、サラダに添えてあったプチトマトをつまみあげた。こういうのもか、と訊くやいなや、ぽんと口に放り込む。やや青臭いが甘みは十分な一粒には、本来備わっている以上のビタミンが詰まっているはずだった。
「この分は貸しにしておくよ」懐の広い第五隊長は冗談と分かるトーンで釘を刺してから、自分の昼餉にとりかかった。「もちろん苦手さ。葉物もだめ、果物も大半嫌い、魚も肉も臭いから嫌、乳製品などもってのほか……彼が食べられるものといったら、米とか芋くらいだろうね」
「もういい、私の偏食についての詳細は結構です。十分納得したでしょう」
フロイトはなかなか返事をしなかった。段々と姿勢が崩れていき、ほとんど寝そべるようにしてスネイルの顔を見上げている。愉快そうな感じを唇の端に滲ませたまま、彼はしばらくじっとしていた。お構いなしに食事を続ける一人分の食器の音だけが、奇妙なだんまりの隙間を埋めた。意図をはかりかねた第二隊長の眉間に怪訝そうな皺が寄りだすと、フロイトは頃合いとばかりに跳ね起きて、その胸中を説明した。
「あれもだめ、これも嫌だというのが、俺が五歳の頃に言っていたのとそっくり同じで面白い。お前を見る目が変わりそうだ」
フライをかじるホーキンスがささやかに肩を揺らして笑い、つられてフロイトも喉の奥でくつくつやった。それでついには、スネイルまでがため息混じりに唇の端を持ちあげてみせた。怒りを感じるにはあまりにも馬鹿馬鹿しくなりすぎたし、うかつな笑いが骨に響いたフロイトの呻きながらの一言が、まったくもってその通りだったからである。
いい歳してみっともないな、俺達は。