カーマン・ラインに充満するコーラルの残滓は無限のエネルギーの一端をその系譜に属する旧世代型の強化人間へ乳として与え、レイヴンの名の下にあまねく戦地を駆け抜けた猟犬はここでようやく舞台を空へ移すに足る翼を得ることになった。軽量のフレームで組み上げられたワタリガラスが軛を離れ舞い踊る。艶消しの黒一色を纏う機体は瞬く間に企業勢力の戦艦を墜としていき、観測者は高らかに快哉を叫んだ。ミサイルが尾を引いて逸れていき、レーザーは一秒遅れの空白を穿つ。これまで請け負ってきた仕事に比べれば、実に容易いゲームだった。しかし最後の一隻が放つ断末魔の閃光が視覚センサーを眩ませると、安堵しかけていた通信回線の向こうでシンダー・カーラの張り詰めた声が敵襲を警告した。レイヴンは空中で踵を返し、限界寸前の出力で親鳥の元へ飛んだ。機体ががたがたと揺れ動き、それに伴ってフレームの内部に重く圧のある音響が満ちる。身を包む異常な感覚刺激に、パイロットの生物学的な本能は無意識の奥で原始的な恐怖に震えた。だが源となったこれらの振動は、適切に設計された猶予が過剰な負荷を適切に逃がしている証でもあった。この高度では日を追いかけていつまでも暮れぬ夕景が空を支配する。遠景にあったザイレムがディテールを取り戻すまで近づくと、長楕円の軌道を描いて降り立つのが鹵獲機体ではなくアーマード・コアであるのが小さくもはっきりと捉えられた。かつては僚機として背を預けあった相手だと、レイヴンは後付の機械的なセンサーが捉えた書き換わりのエンブレムではなく、ヒトとしての第六感を用いて識別した。来たか戦友、と回線に割り込んだ予測通りのその声は、さらに決然と言い連ねた。やはり君はルビコンを脅かす危険因子だったようだ。名指しされた独立傭兵は寡黙だったが、内心ではこの言い草を皮肉らずにはいられなかった。ならどうして助けたりしたんだ? 見殺しにするチャンスならいくらでもあったのに。頼りない発声器官で惨めな喘ぎを披露する代わりに、彼はジェネレータの出力を上げた。任務は何も変わっていない。自走式の爆弾を先に進ませるだけだった。彼は迷わずに接敵した。
口輪を外された狼は赤く灼けついた大気の中を疾走し、予定された軌道で彼らの点が重なりあった。衝撃が両者のフレームに小さな傷をつける。彼らはクイックブーストで僅かな距離を設けると、すぐさま決闘を仕切り直した。再び間合いが詰められ、二つの機影が飛び交う弾丸の間を縫って切り結ぶ。肉薄するレーザースライサーの青が網膜に引いた残像をASHMEADの破裂音が弾き散らせば、警告音が猟犬の次の一手を回避に定める。ジェネレータが鋭く吠えたて、レイヴンの機体は立て続けに右へ、左へとステップした。意識にどれほど内的葛藤の嵐が吹き荒れていようとも、独立傭兵の残りの部分は変わらぬ仕事をするだけだった。焦点の合い辛いシルエットと装甲を掠めて生じる火花を材料に、頭の中で敵機の武装を絞り込んでいく。スティールヘイズの頃と大幅に変わったものの、コンセプトの軸は同じで、より明快に示されている。いずれも鋭利な特殊弾体はこの惑星を包む閉塞感に出口を穿つ槍であり、ルビコニアンを侮り軽んじる部外者らの意志へと打ち込む楔に他ならない。追随する実弾オービットは高機動の新型機が僚機を頼りにするつもりのないのを簡潔に表して、再装填の隙を的確に埋めている。積んでいるコンピュータが近距離向けのものなのだろう、どう立ち回ろうと速力を活かして一定の距離に張り付いてくる。少しでも気を抜けば相手は猛然と畳み掛け、跳ね上がるACS負荷に迂闊な攻めを躊躇させられた。苦しいが、しかしレイヴン自身の間合いでもあった。並の乗り手なら退く場面であえて放った蹴りを起点に、彼は反撃を恐れぬ攻勢に舵を切った。右肩のニードルミサイルは威力ゆえに反動が大きく、タンク以外は必ず足が止まる。空中での予備動作を見切り、ブースタの出力を全開にして追いすがると、至近距離でライフルの弾を叩き込んだ。この手応えはアーキバスお得意のエネルギー武器には決して備わらないものだ。間髪入れずに一撃見舞ったパイルドライバーの排熱が揺らす視界の中心で、向けられた銃口から炸薬の火が迸る。痛みに似た感覚が次々と
偽りの平穏さが訪れた直後、コアブロックの最後の障壁を突き抜けて、青白い火が肌を焼いた。肉の焦げる匂いが香ばしい。苦痛は忍耐強い教師のように、何度もこの世に縋り付いてきた猟犬の魂へ、これが終わりだと教えていた。死霊術は終わりだ。もうお前は甦れない。過剰にセンチメンタルな物思いとは裏腹に、気圧の急激な低下を検知した機体は危機へ即座に対応した。壁面に埋め込まれていた配管から特殊な樹脂が吹き出し、瞬く間に亀裂を覆った。圧縮空気が流れ込んでコックピットを加圧する。慣性が傷ついたパイロットを座席に押し付け、ひときわ大きな振動は機体が静止したことを理解させた。彼は先端の感覚のない左肩に手をやり、スーツに溶けて張り付く奇妙な柔らかい質感を触知して、自身の状態を悟った。生きている。高出力のエネルギー兵器がもろに触れれば火傷で済むはずもなく、おそらくはコアブロックを傷つけた刃の余波に過ぎなかったのだろう。非常電源に切り替わった室内はやる気のない無色の光に満たされた。乗っている人間のためでなく、回収しに来る人間のための光源だ。視界の左側は奇妙な明滅に濁っていた。肩の手触りと顔の左側にひりつく痛みを合わせれば、導ける答えはそう多くない。使い物にならないパーツがひとつ増えたものの、視聴覚はひとつずつ残されていて、それらはまだ価値ある情報を彼にもたらすことができた。告げられた別れはエンドルフィンに凪ぎかけた脳に風を送り、既に落ちた烏を奮い立たせた。まださよならには至っていない。何とか腕を持ち上げ、回線を切り替える。一人を除いて、誰にも聞かせる必要はない。
「ラスティ!」叫べば劣化した咽頭の粘膜から鉄錆の香りが滲んだ。無惨にひび割れてざらついた声で、彼はなおも呼びかけた。「戦友」
スピーカーの向こうで、樹脂と合金の向こうで、絶え間なく流れるコーラルを含んだ大気の向こうで、男が息を呑むのが聞こえてきた。外界と繋がっているか細い糸がこれきり揺れないことも覚悟の上で、レイヴンは言葉なく待った。常にそうあるように、期待は祈りに近似する。彼はゆっくりと呼吸した。じっくり見たこともなかったが、狭いコックピットは飾り気と呼べるいかなる装飾も施されていなかった。コアブロックの容量の大半は中身を生かすことに費やされている。ACをとりまくあらゆる不運の前には無力であるにしろ、脱出の幸運を掴める者がいたのは設計者の倫理の賜物だろう。息を吐くたびに心地よく力が抜けた。意識に染み渡る幸福感が死神の足音であると彼は知っていた。抵抗虚しく朦朧としかけた矢先、エアロックが簡易的な前室との気圧差にくしゃみをするのが聞こえてきた。先に訪れたのは甘美な死ではなく、無彩色のパイロットスーツに身を包んだ男だった。男は、ヘルメットを脱ぐと、適当な機器の上に置いた。レイヴンは感嘆した。口笛でも吹きたくなるような男前だ。想像通り、ジャンク品の旧世代型とは比べるのもばからしい最高の一級品。
「こんな形で君と顔を合わせることになるとはな」男は目を伏せ、長い睫毛が眼差しに潜む感情に覆いをかけた。「分かってはいたが……」
「やるべき……ことを、したまでだ」彼は咳き込んで、血痰を座席の脇に向かって吐き出した。発声がいくぶんクリアになる。「誰の責任にもならない。そうだろう」
男は瞑目し、そして時間をかけて瞼を開くと、話し相手へ迷いなく視線を向けた。澄んだ瞳に映るのは力なく座席に身を預けた傭兵で、貧弱な体躯とそれを包む旧式のスーツ、そして汚れた包帯の重なりでは隠しきれない劣化した表皮とが彼の境遇を説明していた。ハンドラーに買い上げられる強化人間。ACを動かすだけの部品。潰れていない方の目だけがこの壊れかけの人形の、精彩を放つ唯一の要素だった。
「違いない。君が継いだハンドラーの遺志は私の背負うルビコニアンの意志とは決して相容れないものだった。君を止めなければ、ルビコンに夜明けは来ない」
レイヴンが喋ろうとすると、呼吸筋が疼痛に負けてその声を吐息のレベルまで絞った。唇が震えた。彼は何度も試みて、もどかしく身動ぎし、努力の末に哀れっぽい囁きをひとつ漏らした。
「近くに」
自由にならない腕を差し伸べた彼に、男は勝者の憐憫で従った。傾いて傾斜のついた座面に空きを探し、注意深く膝をつく。片腕を支えに顔を寄せて遺言を受け取ろうとする様はどこか口づけの作法に似ていた。ラスティ、とレイヴンは男の名前を口ずさんだ。彼らの眼差しは互いにのみ注がれていて、すべてが静止していた。
次の瞬間、傭兵は手元に転がっていた破片の一つを握りしめると、惨めに窶れきった肉体からは想像もつかない俊敏さでそれを振り上げ、向かい合う男の首筋に突き立てた。虚を突かれた男の唇が薄く開かれたが、レイヴンは相手が次の行動に移る前に即席のナイフを引き抜いた。傷つけられた動脈からは冗談じみた勢いで血が噴き出し、右方の壁を一気に赤く塗りつぶした。傷口を抑えようとした掌は代わりに爛れた肉の上に辿り着き、倒れはじめた男をかろうじてその場に留めた。彼らは互いに視線を逸らさなかった。歪んだ切っ先が二回、三回と叩きつけられて傷口を荒らし、その奥から流れ出す血液がそれぞれの半身を温めた。波の打ち寄せるようだった。心拍に従って溢れ、休み、また溢れながら段々と弱まっていく。糸の切れた身体が崩れ落ちる直前、男の瞳にはようやく感情らしきものが浮かんだ。形を成すことなく散り失せて、補う言葉も発されなかった。生きているほうの男も脱力し、自然と手放された凶器が血溜まりの中で回った。萎えた腕では死んだ人間の圧を除けるに足らず、傭兵はそのまま通信回線を繋ぎ直した。息遣いこそ不規則で荒れてはいたものの、己の身を案じるシンダー・カーラに淡々と応答し、問題なく障害を排除したこと、機体は破損したが、回収してもらえればまた出撃できることを伝えた。傭兵にはまだ仕事が残されていた。会話を終え、温もりの去りつつある背を撫でる。彼らの間には今や凝りかけの血の不愉快だけがあって、終止符の打たれた物語は味気なかった。ラスティは死んだ。C4‐621は、何も選べなかった。