企業との小競り合いを終え、ラスティは明け方近くに拠点へと戻った。以前は気象観測に使われていたらしい山あいの施設は輸送ルートやコーラル湧出地からある程度隔たっていて、それゆえ人目につきづらく、隠れ場にするには丁度いい場所だった。彼は誰とも顔を合わせないようにルートを選び、共同の浴室まで行くとぬるいシャワーで汗を流した。それから自室ではなくコックピットへ戻り、わずかばかりの睡眠を取った。疲れきった狼が夢のない眠りから目覚めると、既に日は昇りきって中天にさしかかる頃合いだった。身を起こせば凝り固まった筋肉に血が巡り、窮屈な寝床に押し込められた関節が、不平でも漏らすようにひどく軋んだ。彼は軽くのびをしてから、コアブロックから通路へと降り立った。衝撃で生じた金属音が、無人の空間でむやみと長く反響した。
真昼の格納庫は棺の沈黙に支配されている。作戦には早すぎる(遅すぎる)時間帯であれば人も機械も出入りはなく、慢性的に人手不足の解放戦線には昼夜を問わず作業に当たれるエンジニアも存在していなかった。ラスティは錆びついて心もとないグレーチングをまたぎ越し、居並ぶ機体を順繰りに眺めた。多くは使い古しのMTで、乏しい物資と人員にめげず、できる範囲で精一杯にメンテナンスされていた。本格的に蜂起してからはACも増えてきていたが、彼らが置かれているはずの位置には抜けが目立っている。腕に覚えのあるパイロットはより良い機体を充てがわれ、その筆頭たる彼自身がそうであるように、ほとんど出ずっぱりで戦うことになるのが常だった。彼は前々回の出撃時に受けた傷の未だ癒えないオルトゥスを振り仰ぎ、どれが岩にぶつけてしまった不名誉の証で、どれが元部下の断末魔の絶叫とともにつけられた傷かを見分けようとした。どちらもつまらない塗装剥げに過ぎず、暇つぶしにもならなかった。白を基調にした新型機の真隣は朝の時点で空だったが、今はその主が平然と鎮座していた。解放戦線のみならずルビコンⅢで最も優秀なAC乗りは、どうやらまた予定を数倍の速さで片付けて帰ってきていたらしい。ラスティの唇はほのかに弧を描き、呆れとも称賛ともつかない息が漏れた。
レイヴンのACは煤けた黒一色だった。コールサインに拘るのか、単に塗り分けが面倒なのか、それともかつての飼い主の趣味か。ルビコニアン専属の協力者へ転身してからも、機体のデザインは変わっていない。もとよりエンブレムすら掲げていない独立傭兵に、所属の意識は薄いらしかった。企業の重要拠点を潰した勝利の夜でも、皆に愛された若き戦士の弔いの直後でも、レイヴンの態度は一貫して平坦で、時間が来れば普段と変わらぬ眠りについた。どの戦場においても用意された敵を淡々と打ち倒し、回線にどんな悲痛な叫びが混じっても、躊躇いなく──慈悲も憐憫もなく──正確にコアブロックを撃ち抜いたり、打ち砕いたりしていた。残骸から立ち昇る煙と燻る火影が漆黒の機体を取り巻く様は、友軍の一部からも密かに悪夢と称されて恐れられている光景だった。行く手に死を撒き散らす屍肉食者の輪郭は、ルビコンの地に武器を取る全ての人間の脳裏にくっきりと灼きついている。ある者には厄災、ある者には救世主だったが、どの側の偶像も等しく畏れを孕んでいた。だが人の身の丈を遥かに超える異形の烏はちっぽけな人間の物思いなどどこ吹く風で、死者の寝床も我が巣とばかりに悠然と安らいでいる。乗り手の基地での振る舞いと大差ない。彼は気にも留めないのだ、誰が欠けようと……
「ラスティ、探したぞ」
不穏な思考は唐突に、がさがさした耳障りな声に遮られた。振り向くラスティの視線の先には厚手のジャケットにやたらと生地のたっぷりした襟巻きを着込んだ男が立っていて、油の染みた包みを両手に、部屋にも戻らずこんな所でACなんぞを眺めていた戦友を、非難がましく睨めつけていた。上背はあるが期待される程の体積が伴わず、奇妙に枯れた印象ばかりを与えるこの男こそ、誰もが救世主と仰ぐレイヴンその人だった。現人神には役者不足の旧世代型の強化人間は、再手術の追いつかない皮膚の爛れを乱雑に巻いた包帯でなんとか隠し、着衣で布を重ねて刺激の多い外気から身を守っている。骨と皮ばかりだった手脚は、数ヶ月の忍耐を伴うリハビリテーションを経てようやく人並みに動くような有様だった。落ち窪んだ眼窩の奥の瞳は絶え間なく揺らぎ、耐用年数の限界を訴えている。
やや強引に押し付けられたサンドイッチの包みを破り開けながら、ラスティは軽く謝罪の言葉を口にし、忘れかけていた昼食にとりかかった。目の前の機体の持ち主も当然のようにそれに倣い、鋼鉄の鴉羽の前に肩を並べて、行儀の悪い立ったままの食事を共にする。ややぱさぱさした灰色のパンには比較的みずみずしい葉物の野菜と塩気のある蛋白質のスライスが、何ともつかないとろりとしたソースをまとって挟まれている。健常なほうの男は問題なくこの軽い食事を平らげたが、欠陥だらけの強化人間はというと、料理人の親切が詰め込んだ具材のせいで随分と苦労しているようだった。
「随分と贅沢な食事だな、戦友」ともすれば嫌味な台詞も、からかいの響きが角を取る。「皆が様々な形で君に感謝を伝えたがっている」
「余計だ」
返答はごく簡素だった。零れ落ちそうな合成肉をどうにか口に収めるのに忙しいのもあっただろうが、飾り気のない感想はラスティの心に少なからず波を立てた。レイヴンの口調に含まれている、口下手というだけでは片付け難いぞんざいさ、取り巻く人々の善意を迷惑がる様子。小蝿を疎むのに似ていて、可愛らしい照れ隠しや慣れぬ人付き合いへの反発には決して属さないものだった。それでも彼は内心の不安をいつも通り微笑みの裏に隠し、やや乾きかけのサンドイッチを齧りながら戦友の奮闘を見守った。口元を伝うソースの乳白がかったオレンジが、異星の動物の褪せた血に幻視される。レイヴンはそれを淡々と喰らい、最後の一片を頬張ると、包みを乱暴な手つきで丸めた。そう見えるのはACの外では言うことをききづらい彼の肉体の問題で、コーラル依存の患者よろしく、指先は細かい動作を行おうとすれば絶えず小刻みに震えるのだった。ラスティは手を伸ばし、友人の濡れた口元を拭ってやった。親指が血色の悪い下唇をなぞり、口角に留まる。いずれも乾燥して血の滲む、劣化の進んだ部分だった。さぞや染みたことだろう。彼は油っぽくなった指をそのまま自らの口元へ持っていくと、体液混じりの汚れをためらいなく舐め取った。レイヴンはぎょっとして目をむき、おぞましげに表情を歪めた。感情の起伏の乏しい旧世代型は、収容所の裏手で生焼けになって折り重なったルビコニアンの遺骸を見るときでさえこんな顔はしなかった。あんたはどうかしたらしい、と唸る文句を裏打ちする気の置けなさは、尊厳を剥ぎ取られた同胞に対する徹底的な無関心と完全に分離していた。
「君はかわいいな。特にその初心なところが」
「そういう言い方はよせ。薄気味の悪い……それでよくヒーローが務まるな。本当の姿を知ったら幻滅どころじゃ済むまいよ……あんたはとことん趣味が悪い」
「幻滅したかな?」小首を傾げて問いかける。わざとらしい仕草を裏打ちするのは相手の好意に対する信頼、あるいは己の容貌に関する自負だった。
「まさか。元から印象最悪だ」
うんざりしたふうの唸り声はひび割れた笑いに形を変え、彼らはそのまま楽しげに肩を震わせた。これが彼らの常だった。友人同士にはありふれた、他愛ない一幕だった。だが解放戦線の男の胸中で、疑問符はますます膨れていった。猜疑心は目の前で屈託なく笑顔を見せる戦友の、劣化して茶ばんだ皮膚の皺ひとつひとつの陰影を食べ、細めた瞼の間から注がれる眼差しの温もりを食べ、それらがもたらす愛情の隣に腰掛けて同居した。やがてレイヴンは握っていた昼食の包みを、愛機に向かって放り投げた。空中でやや広がったそれは空気抵抗を受けて、だらしのない軌道で下まで落ちていった。ラスティは自分の出したゴミを丁寧に折りたたんでから、一拍の逡巡を経て、結局は友人と同じように投げ捨ててしまった。それからしばらく手摺に身を預け、ただぼんやりとだけしていた。どちらも口を開かなかった。長身のルビコニアンが背を丸めた元傭兵に隣り合い、見上げる先では黄ばんだ照明の光が漆黒のフレームで途切れている。輪郭だけになったアーマード・コアの存在感が、平穏そのものの情景に影を落とす。敵を選ばなかったこの怪物が、味方を選んで解放戦線とともにある。愛情がこの事実に喜びの色をつけ、先だって居座りだした猜疑心がすぐさまそれを拭い取った。ラスティは実のところ分かりきっていた真実をいったん退けようとしたが、目覚めた後にも去ってはくれない夢の中の恐怖に似て、ついには振り払うことは叶わなかった。認めてしまえば誤解の余地もない。キャリアを閉じた独立傭兵は一銭にもならない作戦に何度も命を預けていたが、ルビコニアンの掲げる大義に共鳴する様子はいっさい見せていなかったのだ。
彼は独り言の調子でこう切り出した。
「昨日、僚機を一人失った」
「だから言ったろう、俺を連れて行くべきだった。新米のお守りをさせるんじゃなく」
返事しながら、レイヴンはわざとらしく視線を上向けた。ちょっとした軽口の領域にあって、死者に捧ぐべき深刻さは微塵も含まれていない。
「いつか君に弟子入りしたいと言っていた若いMT乗りだ。覚えているか?」
「さあ。これに懲りたらもうMTにしか乗れないような連中をお情けでくっつけて行くのはやめたほうがいい。どうあがいてもオルトゥスの足を引っ張る」
「戦友、彼らもルビコンのために血を流す覚悟をもった戦士だ。君や私と同じくな」
ああそうですかとばかりに肩をすくめたきり、態度の悪い“戦友”は会話を切り上げてしまった。実力に劣る僚友へ敬意を払うべきかに討論の余地はなく、おもねりに言葉を重ねる意義もない。彼はふと鼻をひくつかせ、格納庫の遠くへと視線を投げた。ラスティにはレイヴンの心の動きが、手に取るように把握できた。どこからか流れてきた風に交じる機械油の匂いのほうが、この男にとっては死んだMT乗りより遥かに気に掛けるべき現実なのだった。
「君は、死ぬことも殺すことも恐れていない」深い呼吸で間が取られる。「必要ならこの建物にいる全員をためらわず皆殺しにできる」
「ああ」
即答だった。葛藤や苦悩に類いするいかなる要素も含まれていない。全くの無に近いが、無よりも不穏な気配を帯びた空白。
「他はどうでもいいからな」
レイヴンは不自由な体をぎこちない動きでひねり、いつものように恋人へ笑みかけた。色のくすんだ指先が、向かい合う男のなめらかな頬に触れる。乾いてめくれあがった薄皮の端が皮膚を引っ掻き、ささやかな不快感を残す。ラスティは哀れな見てくれの旧世代型の薄く開いた唇から、両の瞳へ視線を移した。そこには光が宿っている。希望に紐付けられる輝きとは無縁であって、陽に喩うべき温もりもない。ハンドラーから受け継いだひたむきな狂信が、色のない火を灯し続けている。すべてが終わった後に元猟犬から打ち明けられた顛末には、育ての親を殉教の道へ追いやった使命の重さが含まれており、それは愛という単語に脱皮して、今はC4−621の切り刻まれた脳髄へ丁重にしまい込まれていた。たがの外れた情念の対象が己であることを喜ぶべきではないと知っていながら、解放戦線の狼は失言を咎める代わりに、相対する怪物の肩を優しく抱き寄せた。不意打ちにこわばる身体から徐々に力が抜けていくのを感じながら、ラスティは目を閉じて、格納庫までやってくるレイヴンの足取りを思い描いた。料理人の小柄な老婆が食事の包みを渡しながら口にする感謝の言葉、英雄を見つけてはしゃぐ子供らの振った小さな手、戦地帰りのMT乗りの敬意に満ちたまなざし、もう一人の英雄との関係を茶化して笑うませた少女の揺れるおさげ髪。道中で生じうる他愛ないシーンはいずれも和やかな色彩を帯びて次々とスクリーンを流れていった。シフト終わりのメカニックが工具を持った片手を上げてにこやかに挨拶したところで、雑音交じりの声が響く。他はどうでもいいからな。白銀の光が音もなく幻想を灼き尽くし、代わりに現れた格納庫には艶消しの黒い機体がただひとつ立っている。両腕いっぱいに抱えられた人間たちは、愛おしい日常のダイジェストだ。どの顔にも馴染みがある。名も出自も明らかな無辜の人々、大切な家族、守るべき仲間。
「私も君を愛している」
呟けば現実の体温が、彼の体にそっと圧をかけた。壊滅的に口下手なこの男は、意図するところが相手に伝わって満足したらしかった。恋人の首元に頭を預け、幸福そうにハミングする。思いのほか上手な鼻歌をBGMにラスティの意識は空想へと立ち戻り、結びの場面にとりかかった。人でなしの烏は朗らかに肩を揺らし、油を吸った包み紙を丸めて放った。裏切り者の狼は完璧にそれを真似て、くしゃくしゃの包み紙を手摺の向こうへ放り投げた。喜劇の終わりが合図され、機械人形がご挨拶らしくコミカルに腕を広げる。そうやってあっけなく切り捨てられた同胞が、紙くずの後を追って奈落へと落ちていった。