生身の人間がどれほど脆く、湿って、暖かいかを621は忘れていた。再手術を行ったばかりの肉体は足取りさえおぼつかず、手指の動きは常に振戦に妨げられて精密さを欠いていた。だが、意志に沿って動かすことはできた。寝台の上で、彼は空を掴む動作を繰り返した。照明の光点が握り潰され、蘇り、再び握り潰され、何度でも蘇った。その情報はセンサーではなく網膜を介して脳まで届けられ、眩しさは反射的に涙腺を刺激した。眦から溢れた雫がむず痒さを残して滑り落ち、包帯に吸い込まれる。皮膚の上で起こったそれを、彼はくまなく知覚できた。肺が膨らみ、湿り気を含んだ呼気が唇の間を通り抜けていく。声帯を震わすことこそなかったが、生じた音はコミュニケーションにおいて何らかの意味を含ませることが可能そうだった。光と遊ぶのに飽いた強化人間が力を抜くと、芯を失った腕が寝台へ落ちて跳ねた。痛みだけは厚い霧の向こう側にあり、損傷の可能性を想起するだけの信号となるよう調整されているのは明らかだった。ウォルターの指示ではないだろう。このハンドラーが再手術に期待するのは強化人間らしさではなく、人間らしさなのだから。企業所属ならいざ知らず、グリッドに住み着く有象無象の中から探すなら、強化人間の世代を遡るごとに、それを扱える技術者の質は落ちた。第四世代は幸運なほうだ。旧世代型の中ではまだ新しく、現役で施術を行っている闇医者の選択肢は広い。
621、と呼ぶ声につられて頭を巡らせれば、戸口にハンドラーが立っている。次の言葉は定めしこうだろう、調子は……
「調子はどうだ」
包帯まみれの男が笑むのを見て、老いたハンドラーは表情こそ変えなかったものの、ハミングするように喉の奥で小さく声を作った。この人は全て分かっている。休息を拒み絶え間なく仕事を漁るレイヴンの手綱を引き、壁越えの報酬を全額注ぎ込んでも踏み倒す前提になる額をつけにして「病休」を取らせた彼は、一日経たずに望みうるかぎりまっとうな施術者を連れてきた。傭兵の元締めとしてあらゆる界隈にコネクションを持つのは当然といえば当然だが、飼い犬の焦りを汲んで迅速に話をつけてくれたのは間違いなさそうだった。
「お前に頼まれていたもう一つの件だが」と、杖の音が寝台へ近づいた。「先方に話を通しておいた。お前にも少し仕事をしてもらう事になるが、大丈夫か」
「あり……が、とう。ウォル、ター」
嗄れ声には精一杯の感謝と、親愛とが滲んでいた。真っ先に切り捨てるべき発声の機能を強く望んだのは621自身だった。おかげで口から物を食べる権利は未だ剥奪されたままだったが、聞き苦しい自分の声に満足していた。
「面会についても俺がセッティングしておく。お前は……眠いか?」
「ん」
「電気を消してやる。ゆっくり休め」
キン、と澄んだ音とともに、あたりは闇に包まれた。杖の音が離れていって、その後は何もなくなった。ここには何もない。懐かしい感覚だった。時も、人も、運命さえもが彼を置いていってしまったあとの空白で、彼女の声が平坦な意識に一雫落ちた。形を為さない、振動を伴わない声だった。
傭兵の拠点は企業のそれとは異なり、硬質な環境音だけで構成されている。ヴェスパーⅣラスティは郷愁に近い情動が自分の頬を緩ませるのを感じた。アーキバスのガレージでは常時パイロットや作業員がうろついていて、どんなに非常識な時間でも十を下回ることがなさそうだった。対して猟犬のねぐらたるや、たった一機のACを除いては、ほぼ何もないに等しかった。無彩色の通路のそこかしこに、砂埃が溜まっている……と、雑音混じりの静寂に慣れた耳に、意味のある音が捉えられた。リフトが降りてきている。乗っているのは疑いようもなくレイヴンと彼のハンドラーだろう、ここに他の候補は居ない。ラスティの心中で、好奇心と警戒心とが手に手を取って踊った。レイヴンは完全な覆面の傭兵で、その素性や姿形はおろか、声すらも世に知られていない。壁越えで肩を並べた戦友とはいえ、呼びつけてくる意図を訝るには十分に胡乱な相手でもあった。不審な独立傭兵を訪うかどうかは第四隊長の一存では決められなかったが、捨て駒としてあてがわれた作戦を生き延びるだけの戦力を破格の値段で確保したヴェスパーの副長は、例の尊大な言葉運びで招待に応じるよう命令したが、銃の携帯について言い添えるのを忘れなかった。
必要以上に軋みながら停止したリフトから、車椅子が転がり出るように現れた。その後ろに人影はなく、病人じみた男が苦労して自らを運んで来る様子が、ラスティの目からもはっきりと視認された。これがレイヴンか、と彼は内心独りごち、以前に想像していた傭兵の姿は目の前の光景に焼き払われていった。この傑出した操縦士は、直接の神経接続のみによってACを操作していたのだ。必要な脳機能さえ生きていればそれが可能なことは彼も認知していたが、実物を目の当たりにしたことはなかった。パイロットスーツの厚い生地越しでもそうと分かる骨と皮ばかりの痩せさらばえた肉体は、目を逸らしたくなる程悲惨だった。もがくように車輪を進める相手に対し、歩み寄るべきか留まるべきか、どちらが礼儀にかなう振る舞いかは判断に迷う議題だった。彼は留まるほうを選びかけたが、まだ距離のあるうちに立ち上がりかけた相手のせいで、ただ見守っている訳にはいかなくなった。
「ラ、スティ」
力を込めた手の甲へ、隆起した腱の輪郭が解剖図のようにはっきりと浮かんだ。
「ラスティ」
レイヴンは思いのほか上背のある男だった。ラスティが予見した通り、貧弱な下肢の筋肉はその身丈を支えるに足りず、平衡はあっけなく崩れた。危うく抱きとめられた身体の軽さは病の果てに斃れた屍のそれを連想させずにはおかなかった。621はそのまま相手を掻き抱き、ジャケットに刷り込まれたアーキバスのロゴには大きく皺が寄った。己の両手の行き場に迷ったラスティは、とりあえず姿勢を安定させるのに都合のいい位置へ置くことにした。
「これは随分と熱い歓迎だ」
彼は冗談めかした口ぶりで当惑を誤魔化せたか、率直にいえば自信がなかった。恐らくまともに動けるような手術を受けたばかりの強化人間の表情は包帯の下に隠れて読みきれず、こちらの意図はどうであれ、ただ一度、壁の上で共通の敵と戦っただけの──それも中途で離脱した──僚機の繰り手に、そこまで入れ込む道理もありそうになかった。
「あなたをどこへも行かせたりしない」
比較的長めの台詞が一息に吐き出され、喘鳴が後に続いた。621は懐かせた獣のように頬を擦り寄せ、繰り返し名を呼んだ。それはコールサインだったが、識別のための符号という以上の意味を含んでいそうだった。彼がラスティの首元に顔を埋めると、互いの皮膚が涙によって温められた。訴えは切実で、さりとて狂気を孕んでもいなかった。示されているのは愛情で、喪失の痛みに歪んでいた。それが何を意味するかに論理的な解はなかったが、この男を駆り立てた背景は、狼の名を呼び水として天啓の如くに降った。窶れた友が壊れないだけの力を込めて、ラスティは621を抱き締めた。彼らは相擁し、しばらくの間そうしていた。呟きがひとつ、他の誰もいない空間に落ちた。
「背負わせてしまったようだな、戦友」
彼は知っているのだ、灼けた空の向こうにある