泡沫の夢

 強化人間621はメンテナンス用の通路の上に立ち、眼窩に広がる雪原を眺めた。おろしたての瞳は乏しいはずの陽の照り返しを眩しがり、反射的に湧いた涙が眼球の表面を潤す。吐く息は唇を過ぎれば煙の如く白に染まり、吹き寄せる風に散らされていった。こうして寒さを感じられるのも、彼にとっては新鮮な経験だった。これまで身体代わりだったACは涙も、呼吸も、寒さも必要としなかったため、こうした経験の全てについて、思い出すというよりも知っていくという方が正しかった。瞬きを繰り返して冷たくなった涙を均すと、山々の稜線や針葉樹林の輪郭がはっきりとする。しばらく呆けていた彼は第四世代の情動に関するハンドラーの懸念を思い出し、「なにか楽しいことを考え」ようとした。例えばぶつ切りにされたミールワームたっぷりのシチューとか、買ったばかりのパーツを中心に組んだACとか、酔いの回った同胞達の陽気な歌声とか、そういったものを。多少の葛藤はあっても、新しい人生は大いに楽しむことにしていた。刈り取られた無数の分岐に対してこれが最善という証を立てるには、何をおいてもまず納得が必要だった。
『戻りましょうレイヴン、このままでは風邪を引きます』
 耳鳴りとともに声が響く。“ルビコニアンのエア“との交信は再手術の後も続いていた。前夜の別れの一幕がまったくの茶番に終わったのはいささかばつの悪いでもなかったにしろ、気楽な話し相手を失わずに済んだのは単純に幸運だった。繰り返し浴びた致死量のコーラルは強化人間の残りの寿命を擦り下ろしたが、同時にこの物質との繋がりを確かなものとしていたらしい。
『もう少しだけ』と彼は意味もなく抵抗した。『せっかく晴れているんだから、少し空気の入れ替えをしたっていいだろう』
 はあ、と呆れる彼女は、このところますます口うるさい妹じみてきた。事あるごとにこちらを気遣い、休ませようとしてくるあたりは俺たちの“父親“そっくりだが……とレイヴンは中空へ目をやった。母親にするには落ち着きがなさすぎる。
『風邪で済めばまだいいでしょう。肺炎がどういうものか、この基地のデータベースへ侵入したときに知りました。私は、あなたにそうなってほしくないのです』
『ちゃんと着込んでいるから、大丈夫だ。それに肺は新品だし』
『そうですが……レイヴン、ラスティが帰ってきたようです。迎えに行かなくていいのですか?』
 声には勝者の余裕が滲んでいる。クソ、と強化人間は交信に乗るか乗らないかの強さで悪態をついた。そのカードを持ち出されたら戻るしかない。高所からの絶景にあっさりと別れを告げて、彼は重いドアを軋ませた。廃棄されて久しい観測所の設備は全てがおんぼろで、がたがきていた。ルビコンに夜明けがもたらされる前から、封鎖機構や企業は不毛なこの付近の土地を見捨てていた。お陰で戦火を辛くも避けた準廃墟は戦えない人々のための避難所として機能していた。ザイレムが墜ちてからは、燻る戦火の煤に汚れた戦士たちのつかの間の我が家として。長い階段と底の厚い作業靴がリズミカルな金属音で時を刻む。萎れきった筋肉は手術でどうにかする訳にもいかず、まともに歩けるようになるまでに数ヶ月を要したが、621は過程を楽しみ、結果に満足していた。走り回るまではできないが、今や彼は誰の、そして何の力も借りることなく、望む所にはどこへでも行けた。二階分の距離を難なく降りきって、廊下を抜け、倉庫のリフトを経由してエントランスへと向かう。これが一番の近道で、何よりあまり利用する人間が居ないのが気に入りのルートだった。足音の種類が次々に変わる。床材の感触が柔らかくなると、すれ違う人も増えた。老夫婦に挨拶を返し、ACに乗ってみたいと頼む若者をやんわりと諭し、少女の前で少し屈んだりしながら、人気者のカラスは目的地に近づいていった。さっき乗せられたばかりの冠は色とりどりの端切れを編んだもので、小さな耳鳴りは『とてもよく似合っていますよ』と嬉しそうだった。
 レイヴンが扉を開けて入ったとき、帰ってきたばかりの男は、分厚いコートについた水滴を払っているところだった。寒気に当てられた頬はわずかに赤らんでおり、ともすれば彫像じみて見えがちな均整のとれた顔立ちに、命の気配を加えていた。彼は騒々しい靴と衣摺れの音に気づいて顔を上げ、友人の姿を目に留めた。輝くような笑みが浮かんだ。
「かわいいな。君によく似合う」
「そうだろう、特注品だからあなたにはあげられない」彼はまだぎこちない笑みを返し、私の言った通りでしょう、という頭の中の声は無視した。「おかえり」
「ああ、ただいま。吹雪が止んでくれて助かった」
「すぐに出るのか?」
「明日にはな。だから今日の残りは丸ごと自由にさせてもらう」
『明日まで一緒に過ごせるということでしょう。良かったですね、レイヴン』
 配慮不足の声に補足されずとも、何を意図した発言かは明瞭だった。レイヴンはそれを(正確にはそれらを──エア、頼むから静かにしていてくれ)努めて意識の外に追いやってから、返事をどう組み立てるべきか悩んだ。悩んだ結果出てこなかった気の利いた返しを早々に諦めて、頭の上の冠を脱ぎつつ、彼はとりあえず口を開くことにした。
「嬉しい」
 慣れない言葉を無闇と連ねるより、単純な方が場に適している例もある。まさにその好例として、レイヴンの拙い返答を、解放戦線の狼はこの上ない喜びとともに受け取った。ラスティはようやく知った相手の率直さを好ましく思っていたし、問うまでもなく彼が嬉しいと答える理由は推して知るべしだったので。
「光栄だ。どうやら君も外をうろついていたらしいな。立ち話は切り上げて温かいものでも飲むとしようか」

 割り当ての部屋の中央には、やたらと幅のあるソファが堂々と鎮座している。いつぞやRaDのドーザー達が助太刀の礼として持ち込んできたもので、元々は宇宙港の休憩室で使われていたものだった。大の男が寝そべってもつま先が端に届かない大きさだ。ソファ本体の無味乾燥な装いは同胞達の手によって毛織物で幾重にも飾られていて、素朴な好意の証は寝そべって心地よいだけでなく、心和ます素晴らしい記念碑にもなった。二人は並んで腰掛けると、湯気の立つカップへ揃って口をつけた。“泥水のようなフィーカ”はどちらの好みでもなかったが、冷えた身体をよく温めた。さっさと飲み切ってしまったレイヴンは背もたれに身体を沈め、手持ち無沙汰に少女の贈り物をもてあそんだ。
「いつになったら暇になるかな」
 何の気なしに口にした疑問は、思いがけず深刻に響いた。人手は常に足りなかった。貴重なAC乗りが戦場において引く手あまたなのはもちろんのこと、ハンドラー・ウォルターの猟犬とヴェスパーⅣには一機で戦況を一変させる力があるのだから、苦境に立たされた同胞からの救援要請はひっきりなしに届いていた。
「バスキュラープラントは灯台のようなものだ。稼働を停止しても、吸い上げたコーラルが消滅する訳ではない」どこかの(頭の中の、対流コーラルの……)楽天家と違い、ラスティはリアリストだった。「この先、新たな星外企業が参入してこないとも限らない。ベイラムが手を引き、アーキバスが疲弊した今、漁夫の利を狙うには格好のタイミングだろう」
 深い溜息。「分かってはいたが、険しい道だな」
「ラスティ、それでもあなたが居る方がいい」
 猟犬は編み紐のおもちゃを脇に置き、傍らの男に寄りかかった。室内とはいえ体温を感じるには着込みすぎていて、彼はそれをもどかしく思った。ラスティもそうだったのだろう。彼らは向き合い、互いの瞳の中に自らの輪郭を探した。そしてどちらともなく、最後に残された距離を詰めた。はじめこそ穏やかな睦み合いのそれだったが、彼らは次第に品のいいキスに我慢ならなくなった。相手の存在を欠いて過ごしたこの数日の隙間を埋めるように、夢中になって貪り合い、情欲の熱の内に呼吸を忘れた。枷の外れた狼は捕食者の作法で押し倒した恋人の吐息を盗み、おもむろに身を起こした。影が落ちる。
「戦友、ルビコンに来る前の記憶は無いと言っていたな」
「ああ」荒い息を整え、彼は小さく頷いた。「無い。まったく」
「そして君は覚えている限り、この種の戯れには縁がなかった」
「再手術の資金が貯まるまで指一本動かせなかった」
「では私が君の初めての男という訳か」
「ちょっと」組み敷かれた男は嫌悪感をあらわにした。「そういう趣味があったのか」
 シルエットの肩がおかしげに揺れる。それは否定させてもらおうか、と歌うような低い囁きが降り、レイヴンは先の非難も忘れてうっとりした。この男の声には何か抗いがたい魅力があって、それだけで彼を愛するに足る理由のように思える時すらあった。
「なら何なんだ、あなたの……ああ、クソ、俺があなたしか知らないっていうのには、一体どんな意義がある?」
「君が口づけの熱さを思う時、君の心には私しかいない」彼は答え、その補足として相手の緩んだ唇をまた柔く食んだ。「誰か他の人間を愛するようになるまでは、だが」
 レイヴンは面食らい、感情というものはかくも出鱈目でややこしいものかと狼狽した。だがしかし、悪い気はしなかった。彼は返事の代わりに相手の背へ腕を回し、力の限り強く抱き締めた。やや駆け足の鼓動が、答えになってくれるはずだった。あんただけさ、俺が選びたかったのは。
『ラスティもあなたも、案外独占欲の強い人だったのですね』
『人は見かけによらない。でもまあ、よかった』
『本当に不思議なものです、人というのは』

 翌朝、621はまだ陽の登りきらないうちに目覚めた。昨夜さんざん乱しあった相手はすぐ目の前で寝息を立てており、それは規則的で、熟睡を示すだけの深さがあった。閉じた瞼の描く淡い孤を、元傭兵は視線でなぞった。これがルビコン3で闘争に明け暮れた彼の、運命からもぎ取ったひとつの勝利だった。普段は優しく甘い雰囲気をまとう彼の面差しは、薄暮にあってその糖衣が削ぎ落とされ、本来内に持つ獰猛さと峻厳さとが鋭い造形によく表されていた。彼は闘い続けており、終止符が打たれる日はいつとも知れないままだった。終わりまで隣に居られるだろうかと考えた時、レイヴンの心は剃刀で切り刻まれるような痛みに震えた。私を捕まえられる人間はひとりしか知らない。ラスティは今や彼にとっての全てだったが、幾多の可能性に背を向けて選び取った全てを、とうの昔に失っていたような気がした。