621が四脚を使うのはその日が初めてだった。買ったばかりのフレームはアーキバスの美学に基づくなめらかな曲線を描き、エイリアン的な造型はそれだけで顧客を十分満足させた。普通に歩けば忙しく動く二対の脚は虫や甲殻類といった外骨格の生物を思わせ、ブーストすればその安定感は抜群、ホバリングする間の空中をツルツル滑る感覚には、生身では決して味わえない種類の楽しさがある。テスターAC相手に立て続けに蹴りを繰り出し、物言えぬ強化人間は頭の中で快哉を叫んだ。シミュレーション内ではしゃぎまわる飼い犬の様子はハンドラーを微笑ませ、終わる頃には少し散歩を楽しんだらいい、といった言葉を引き出した。壁越えから向こう、名の売れた傭兵に楽しめる余暇はあまりなかった。ウォルターは彼を休ませたがったが、気晴らしの必要性についてはよく理解していた。不自由な身体ではちょっとした散歩すら難しく、621に与えられた選択肢といえば瞼の裏の暗闇か、味気ないガレージの通路くらいのものだったが、ルビコン3のこれはこれで豊かな自然は、それらよりかは幾分ましと思われたのだ。任務中はゆっくり景色を楽しむわけにもいかず、地形を味わう余裕もない。自分がどこで働いているのか知るのにもいい機会だった。
行ってこい、との言葉に送り出され、621は出発した。弧を描くように雪原を滑り、ついた勢いそのままに崖から跳んで、凍りついた湖の上をホバリングする。着地の衝撃は二脚とは違った形で機体へと分散され、振動は新鮮な刺激として操縦者の心をくすぐった。彼は目一杯動き回った。まっさらだった雪に刻まれたシュプールは複雑怪奇な幾何学模様となり、そのあたりの樹木は空中で振り回した脚によって根こそぎなぎ倒されてしまった。アサルトブーストで助走をつけた渾身の蹴りが小ぶりな岩を粉々に破壊したところで、ようやく猟犬の勢いは止まった。621はゆっくりと上昇し、空中に留まったまま眼下の惨状を眺めた。やりすぎではあったが、自由だった。特に最近の情勢下にあってACをこれほど趣味に使う人間は彼か、あるいは度胸試しやくだらない賭けに明け暮れるドーザーくらいのものだっただろう。遥か地平に目をやれば、山向こうにぼんやりと赤茶けた大地が見えた。ボナ・デアは既に懐かしくなりかけていたが、一定の色相で展開される砂塵と岩場の情景は、スライドを送るように次々と脳裏に浮かぶ。次の休暇がいつになるかは分からないが、ハンドラーが許すなら、砂丘は次の行き先の有力な候補になった。それなら今度はタンクがいいかもしれない。盛大に砂を巻き上げて、もうもうと立つ砂煙を引いて進むのはさぞ愉快なことだろう……そうやって白昼夢に遊ぶ彼の意識に、割り込んでくる音があった。
『やあ戦友。こんな所で何しているんだ?』
621の心臓は大きく跳ねた。半分は驚きのためで、もう半分は友人と呼べそうな付き合いのある数少ない人物の来訪を喜んだからだった。彼は『こんにちはラスティ』のあとにどう会話を続けようか迷ったが、話題を決める前にエネルギー切れを伝えるアラートが鳴り、機体が落下し始めた。慌てふためいた621は機体を動かすのと友人に警告するのとを同時にやろうとして、それら二つをものの見事に混乱させた。機体はふらつきながら回転し、通信回線にはゴチャゴチャとした意味不明のノイズが乗った。運悪く、ラスティは相手の意図を汲もうと努力した末、とりあえず待つことを選んで棒立ちになっていた。結果彼はあえなく落下に巻き込まれ、そこそこ重量のある四脚ACに完全に組み伏せられた形になった。衝撃から復帰し、621は何が起きたか観察しようと試みた。すると細身のフレームと絡み合うようにして伸びるVP-424の脚部が目に入り、彼はウォルターがくれた資料のひとつを思い出した。それは猛禽が小鳥を捕食する様子で、広げた足がちょうどこんな風に見えた。スティールヘイズの華奢で優美な構造は、死を待つ獲物を強く想起させる。不謹慎な連想に囚われた彼は、しばらく無言のまま微動だにしなかった。
『どうしたものかな、戦友……君がこのままでいたいのなら、私はそれで構わないがね』
囁くように低めた声が沈黙を破った。次いで、武器を扱うために造られたACの掌が、自らにのしかかる機体のなだらかな稜線をなぞる。明らかに含みを持たせたやり方だった。耳障りな金属質の摩擦音が響くと同時に、621の肌は粟立った。強化人間といえど皮膚感覚の同期などはされていなかったが、金属の指が脚部の装甲をそっと撫でると肉体の該当する部分、下腿のあたりから形容しがたいむず痒さが生じた。それは膚の裏から筋繊維の隙間を縫って這いのぼり、腹のあたりでわだかまった。激しくなった鼓動はほとんど胸郭を叩くように感じられ、過剰に供給された血液が顔を温めた。彼の中で羞恥と自己嫌悪と、わずかな期待が渦を巻いた。いずれも捉え損ねた合成音声は『すまない』と『申し訳ない』を繰り返し、621はなんとか状況を変えようと身動きした。擦れた部品が火花とともに軋んだ悲鳴をあげると彼はさらに焦り、制御系統の混乱に伴って機体はがちゃがちゃとやかましく暴れた。ほとんど恐慌状態にある友人と対照的に、ラスティはさもおかしそうにくつくつと笑った。
『よし、一度落ち着こう。まずはしっかり立つことだ。普通に立っていてくれれば、こちらで抜け出せる。まず深呼吸だ……そう、いいぞ。カウントしよう。さんで立とう。いいかな? いくぞ……いち、にの、さん』
さっきまでひどい有様だったACは、適切な導きを得てあっさりと立ち上がった。深呼吸をしているうちにどの足がどこにあるかを思い出せたので、あとはそれらに均等に力を入れるだけだった。スティールヘイズはするりと器用に脱出すると、ほんの少し飛び上がるようにして621の隣に立った。
『……すまない』彼は四脚のでかい図体を精一杯縮めて謝罪した。
『私にも責任がある。あんな風に君をからかうべきではなかったな』
そうしてラスティは手放していた装備を拾い、長居することなく飛び去っていった。一人残されたレイヴンは、そこら中の岩の塊を無意味に蹴り壊しながら帰路についた。新品のパーツを傷だらけにして得た結論は、あの時の妙な感覚は、さっさと忘れたほうが身のためというものだった。