無題

 ルビコンの解放者は忙しかった。ザイレムを墜としても企業がコーラルを諦めることはなく、革命の火は各地で人々の命を焼いていた。彼は既に半ば象徴と化したACを駆り、どの戦場にも姿を現した。単騎でも精鋭部隊を壊滅させる規格外の戦力は、英雄という点を除いても士気を高めるに十分だった。しかしルビコンの各地を巡る彼の目的は他にあり、実のところ解放戦線への助力はその口実に過ぎなかった。これまでと同じように、どれほどの感謝が示されようと、ルビコニアンの自由などどうでも良かった。
 撃ち落とされたオルトゥスは残骸すらも発見されず、存在を知るわずかな人々は、恐らく機体がばらばらに散り失せてしまったか、でなければ二度と日の目を見ることのない海の底だと諦めていた。フラットウェルは執拗に地図を塗りつぶすレイヴンを諭し、どうにか「彼の遺したもの」に目を向けさせようとした。頑なな鴉は次の範囲を書き込んで、無言のまま出撃していった。鋼鉄の屍は数多積み上がり、いくつもの企業拠点が潰されていったが、それでも望むものは見つからなかった。だが一年が過ぎる頃、この捜索は突然に終わった。

 記憶喪失の男の話は、頭に棲み着くコーラルの波形がルビコンの果てから帥叔に届けられた一報を捉えてきたものだった。曰く、衰弱しきって流れ着いた廃人同然の男をこの数ヶ月に渡り匿っていたが、ある日飛び去っていくACを目にして一言、ルビコニアンにとって重大な意味のある名を呟いたのだという。それはこの惑星を企業の枷から解き放った開闢の大鴉を示すもので、ぽつぽつとこぼした来歴によると、彼もまた解放戦線の戦士らしい……ということで、その地域はちょうど数日前に虚しく終わった捜索の範囲に重なっていた。
『レイヴン、この人物はラスティである可能性が高いと思われます。あなたの機影を切っ掛けとして、失われた記憶を取り戻したのでしょう。会いに行くのですか?』
 考えるまでもない。レイヴンはいても立ってもいられなくなり、まだ地上では木偶のような不具の体を引きずって、格納庫へと足を向けた。息が上がって苦しくなり、急激に増えた血流が耳の奥で轟と鳴った。それが耳鳴りを掻き消してしまい、エアの付け加えた何かしらの問いかけは届かなかった。平常時ならどんな小さな交信も無視されなかったが、強化人間は探し求めた答えを追うのに余裕を失い、こぼれ落ちた言葉の意味は、ついぞ聞き返されなかった。
 うち捨てられた砦の一室は、人でごった返していた。完全に素性の知れた戦士の周囲にはルビコンの解放者が行く先々で受けた歓待と同様の熱気に満ち満ちて、一歩進むたび確信が強まった。薄暗く煤けた通路の端で呼吸を整え、レイヴンは言うべき言葉を考えた。伝えたかったことばかりだ、並走する狼の姿が旅路の孤独をどれほど和らげてくれたか、養い親に背く苦痛へ立ち向かう意志の火種を貰ったことや、失ったと思った瞬間の痛みの激しさ、そしてどんなに会いたかったかを……言葉は洪水となって意識の中を渦巻き乱した。増える人影を避けて歩み、興奮気味に述べられる賛辞の間にあの親しげな声が漏れ聞こえてくると、やりきれないほど胸が締めつけられた。追い求めてきた対象は、あと一塊の人垣を抜けたところまで迫っていた。はじめの一声として適切であろう、なるべく気さくな挨拶を選び、彼は踏み出そうとした。
「ああ、    !」
 女が一人、群衆を割って中心に居る男の元へ駆け寄った。レイヴンは押しのけられ、よろめいて隣の老爺にぶつかった。彼は見慣れぬ男を非難がましく一瞥したが、すぐにもっと別の、見るべき光景へ意識を戻したらしかった。図らずもレイヴンの位置からは、その劇的な場面がよく見通せた。女は赤銅色の肌と豊かな黒髪をもつ佳人で、対する男もそれに劣らぬ美丈夫だった。女が名前と思しき語を繰り返し呼びかけ、歓喜のままに涙する。その濡れた頬に手を添えて、男もまた泣いていた。注ぐまなざしには限りない愛と慈しみが感じられ、形のよい唇は笑みの形に弧を描いている。二人は額を寄せあい、耳慣れぬ響きの単語を囁きあっていた。そして最後には、はじめからそう約束されていたように、厳かに口づけを交わした。周囲の人々は胸に手をあて、隣り合う人に寄り添って溢れる涙を拭ったが、レイヴンは一人、瞬きも忘れて凍りついていた。窶れ果てててなお輝くような魅力を備えた男の唇から、彼女は私の婚約者なんだ、と高らかな宣言があり、人々の感嘆を誘った。
「もう会うこともないと思っていた……こんな日が来るとはな」
「あなたとレイヴンが、私たちに明日を見せてくれた。希望をもたらしてくれた。愛しているわ、    」
「私もだ。君を愛している」
 二人はひしと抱き合い、女はまた彼の名を呼んだ。レイヴンの知らない名前を。識別名ではない、出生に根差したルーツを持った本当の名前だった。体を離し、またキスをして笑う。祝福の笑みがさざ波のように広がった。
「レイヴンといえば」と、ここで聴衆の一人が言った。「彼が来ているらしいぞ。表にACがあったのを見た奴がいる」
 男は背筋を伸ばしてあたりを見回した。
「レイヴン! 私の戦友、どこにいるんだ? ああ、君の顔が分かればいいんだが」
 部屋中を巡った視線はその戦友の上を二度、素通りした。一度は目が合ったように感じたが、それに大した意味はなかった。レイヴンは後ずさると、三度目が訪れる前に踵を返して逃げ出した。いくたりかの興味を引いたが、誰も追ってはこなかった。彼は走り、走り、屋外へまろび出て足を止めると、建物の陰で嘔吐した。少量の胃液が、ひび割れたコンクリートを汚した。身を折り縮めてえずいても、それ以上何も出てこなかった。
『あの通信はフラットウェルと、もう一人の人物に宛てたものでした。彼らがラスティの生存を知ったのは、私がこれを見つける数日前です。既に彼女は出立していたのでしょう。フラットウェルがあなたに教えなかったのは、恐らくあなたの執着を知っていたからです。知ればルビコニアンへの同情も愛着も持たないあなたがルビコンの解放者としてあり続けてくれるかを、彼は疑問視していたのです。私もそれは正しいと考えています。あなたを動かしているのは使命感でも正義感でもなく、たった一人への想いなのですから。
『レイヴン、私は聞きたかったのです。この世界があなたの望んだようなものではなかったら、あなたはいったいどうするのかと』
 彼はその場にうずくまった。この世界は彼の望んだようなものではなかった。COAMを積んで医者を探した皮膚の再建はうまく進まず、鱗屑の浮いた醜い顔は、表情を作ろうとすれば必ずぎこちなく歪んでひきつれた。アンバランスな四肢はどんな服でも生地を余らせ、上背があるぶん病んだ印象ばかりを強調する。たとえあの美しい恋人たちが友人の醜さを厭わなかったとしても、レイヴン自身が耐えられなかった。二人は完璧だった。出来損なった旧世代型の強化人間があのおとぎ話の一幕に混じることなど、想像するのもごめんだった!
「エア、俺は名前も知らなかった。名前すら知らなかった」
 念じるだけで十分なところを、彼は口に出して答えた。声はがさがさとして聞き苦しく、時折滑稽に裏返った。
「戦友っていうのは、何も特別な呼びかけじゃない。そんなことくらい誰だって分かる。俺は何を期待していたんだ? 彼の名前も知らなかったんだ」惨めな男はすすり泣いた。「どうしたらいいかわからない」
『帰りましょう、レイヴン。あなたは必要とされています。解放戦線はあなたの帰りを望んでいるでしょう。どうしたらいいかは、彼らが教えてくれるはずです』

 強化人間C4-621は停めていたACに乗り込むと、すぐに機体を空に飛ばした。拡張された視界の端に、扉から出てくる人影が映り込んだが、決して顧みることはなかった。通信回線に、解放戦線からの救援要請が飛び込んできた。彼はすぐに行くとだけ伝え、向こう側の人々を喜ばせた。確かにまだやることがあった。戦火は尽きることなく燃え続けている。レイヴンは必要とされている。だが借り物の名前だった。呼ぶ人の居ない他の名前もいくつかあったが、レッドガンは既に無く、621は通し番号で、どちらもたまたま割り当てられた数字だった。
 彼は誰でもなかった。