薄っすらと錆の浮いた階段を降りて扉を開ける。半地下の空間には沢山の薄汚れて疲れた、かつ陽気に赤らんだ顔の人々がひしめいていて、酒精の香りと猥雑な物音で満ち満ちていた。ラスティはあたりを見回し、空いた席──十分に清潔でうるさい客に絡まれなさそうな席を探した。どこも馴染みの顔ばかりだったが、バーカウンターの端に見慣れない男が一人座っていて、その周りは空白になっていた。服装におかしなところはなく、著しく不潔であるとか殺気立っているとかいったこともなかったが、どことなく他人を拒絶するような雰囲気が感じられた。そうした性質は年若いルビコニアンにとってむしろ好ましく、また興味を惹かれるものだった。彼ははじめからそう指定されていたかのように自然な振る舞いで見知らぬ男の隣に腰を下ろし、いくつかの硬貨と引き換えに、「彼と同じものを」と注文した。男は無神経な赤の他人を横目に一瞥しただけで、すぐに自分の世界に戻った。青年はそんな相手の様子に構わず、続けて言葉をかけた。
「見かけない顔だな。独立傭兵か?」
目に見える反応は何一つなかったが、意外にも返答はあった。「ああ」の一言とはいえ、無視もやむなしという予想は外れたのだ。彼はこちらを認識している。その一点で会話の糸口は見つかった。眼の前に置かれた安酒のグラスを手にし、やや見上げるようにして微笑みかける。狙い通り男の顔はわずかにこちらを向き、その瞳が話し相手の姿を捉えようとするのが分かった。ラスティは自身の振る舞いがどんな効果をもたらすかをよく承知していた。彼はわざとらしさや打算とは無縁でありながら、側を行き過ぎれば自然と目で追ってしまうような存在だった。美しい容貌や甘く煙った声質を考慮に入れずとも、纏う空気がそうさせた。
「土地の人間ではないだろう。封鎖をどうやってかいくぐったかは聞かないほうが身のためかな」
一杯口にする。酷い味だが、アルコールの刺激はルビコン3の外気に蝕まれた胃の腑を心地よく温めた。
「景気はどうだ?」
「直接の依頼は受けない。窓口を通してくれ」
「今夜、個人的にお近づきになるにはいくらかかるか聞いても?」
傭兵は世間話とは無縁の人生を送ってきたらしかった。眇めた目に浮かぶ困惑は、受け取り慣れない冗談を持て余している彼の心情をそのままに表していた。
「君は随分と真面目なようだな。安心してくれ、大した意味はない。あまり陽気になりすぎていない話し相手が欲しいだけだ」
折よく彼らの背後で歓声があがった。賭けに勝ったらしい男のひとりががなり立てるのは“灰かぶりて我らあり”というお決まりのフレーズで、酔いのまわった同胞たちも次々とこれに倣った。唱和は能天気で愉快だったが、どことなく空虚だった。ラスティは控えめに肩を揺らして笑い、声を落として話を続けた。
「正直なところ、僕はあれに加わりたいと思えない。ルビコンには既に価値ある資源などない。雪と氷と監視衛星に閉ざされた、廃墟だらけの汚染惑星だ。生き延びたことは寿ぐべきだが、みなその先にあるものから目をそらしつづけているように思える。進み続けなければその場に留まっていることもできないというのに」
「平和と見るか停滞と見るか、か。君は革命家のようだな」
「そうでもないさ。僕には何かを変えるだけの力はない」グラスに口をつける。「何をすればいいかも分かっていない」
独立傭兵は自虐的な彼の弁を聞き、唇の端をほんの少しだけ上げたようだった。これほど仄かな笑いでも、その厳しい面差しに若やいだ光が差し、年の頃はラスティとそう変わらなく見えた。落ち着き払った居住まいからは老獪さすら感じられたが、実際の所この一瞬の印象こそが真実なのかもしれなかった。次に口を開く頃にはもう元の、感情の読めない仏頂面に戻っていた。
「革命家の名を聞いても?」
「もちろん。ラスティだ」
「ラスティ」男はその音の響きを味わうように呟くと、こう言葉を継いだ。「いい響きだな」
ルビコニアンは愉快げに肩を揺らした。こんな無愛想な男から聞くにはほとんど甘ったるいと形容しても差し支えのない賞賛に、腹をくすぐられるような思いだった。
「そういう褒め方をされたのは初めてだ。君のほうは? 依頼をしたくなったら必要になるかもしれない」
男はしばらく答えなかった。片手に持ったグラスと溶け残りの氷が屈折させた照明の光を、じっと観察している様子だった。まるでそれが単に自分の手の傾きに合わせて位置を変える物理現象ではなく自立して動き回る小さな生き物であるかのように、その軌道を目で追っていた。それからやおら立ち上がると、ラスティのグラスの隣に自分のグラスを並べ置いた。
「私の名なら時が経てばおのずと知れるだろう。そう珍しいものでもない。君の為すべきこともいずれ分かる」
出ていく男の背中を、ラスティは引き止めることもなく見送った。姿を消してしまえば、男の存在も先程の会話も、夢のように不確かに感じられた。だが最後の一言に限っては、意識の片隅にこびりついていつまでも離れなかった。単なる誤魔化しに過ぎないと忘れることもできたが、そうはならなかった。
夜の帳が下りる頃、ルビコンはもっとも美しくなる。この惑星の空に巡らされたグリッドは巨大な怪物のような輪郭をそこに焼きつけ、闇に呑まれた広大な雪原にはわずかな居住地や工廠の明かりが、まばらに落ちた星屑のようにきらめく。そして血潮の色に染まるコーラルの対流が、全てを覆い輝くのだ。レイヴンは天を仰ぎ、吐いた息が白く溶けていくのを眺めた。今は暗いだけの光景に加わった幻想は、既に予告された未来だった。