幸福の定義

 彼らは崖沿いに吹き付ける海風を心地よく頬に感じながら、歩き慣れたなだらかな斜面を下った。この時期の海はあくびでもするように悠然と凪いでいて、時化の際に見せる荒々しく容赦のない顔はすっかり鳴りを潜めていた。歩く二人のうち、小柄なほうの男はうきうきした気持ちに任せて時折軽やかにスキップした。もう一方の男はそれを見て満足げに微笑み、落ちるなよ、と冗談半分に声をかけた。連れ合いはスキップをやめ、肩を揺らして笑った。
「俺が落ちるって? 御冗談」
 そう言うと彼はひらりと身を躍らせて、何もないはずの空を踏み、あっという間に見上げるほどの高さまで昇った。ステップは休みなく、コートが風に翻る。地面に取り残された男は片手を庇に、眩しい青の中を遊ぶ、小さないたずら鳥の姿を追った。少しばかり降りてきた小鳥は二階の高さを臆せず歩み、たわむれにくるりと回った。二人の目が合う。初めて互いを見つけた時のように。
 と、それまで危なげなく宙に留まっていた男の体がふらりと傾き、重力が彼を捕まえた。地上にいた男は反射的に駆け出し、落ちてきた恋人をすんでのところで受け止めた。彼らはそのまま抱き合うと、青草の上へ身を横たえて、しばらくの間無言でいた。やがて片方が口を開いた。
「わざとだな」
「俺が間抜けじゃないと分かってくれていて嬉しいよ」魔法使いはにやりとして、相手の胸に顔を埋めた。「空を歩くのは最高の気分だけど、それより最高なのはさ」
 続く言葉を告げる前に、彼は少し身を起こし、自分の影の下にある、幸福そうな呆れ顔にキスをした。風が乱した髪の一房を、骨の太いごつごつした指が絡め取る。はじめは馴染まなかったこの白も、今では彼の一部であり、彼らの一部でもあった。舞台の幕は降り、壇上を退いた二人には、既に懐かしむべき過去となっている。
「下で受け止めてくれる人間がいるってこと」
 やや長すぎる読点を終え、台詞はこう締めくくられた。吹き寄せる風に遊ぶ海鳥の声を、彼らは互いの腕の中で聞く。