「どうした、うなされてたぞ」
            「俺だって悪い夢くらい見る」
             あんたの専売特許じゃないんだぜ、とつけ加えようとしてやめにした。昨日友達がくれた魚は塩を振って焼くだけでもうまかった。俺は小骨をよけながら、グラスの水にライムをしぼる彼の指の関節が白くなるのを眺めている。だいぶ日焼けしたとはいえまだ地元の人間と比べれば幽閉されたお姫様も同然の生白い肌は、その下の血流の状態をよくあらわしていた。特に皮膚の薄い部分や血管の集まった部分なんかは。ライムの絞りかすが机の端によけられる。普段顔色ひとつ変えずに人をあしらうこの男も、特定のカテゴリの言葉にはひどく動揺し、頬や耳や、悪くすると首の下まで、フラミンゴの脚くらい鮮やかなピンクになる。
            「どんな夢か聞いてもいいか?」
             ヨスタトは皿の上に落としていた目をちらと向けてから、自信作のオムレツを切り分けて口に運んだ。仕事が休みの日は彼が朝食を作る。最初のうちはひどいもんだったが(四年間なに食ってたんだよ、と言うと驚愕の食生活が明らかになった。収容所かよ)、元から器用で手際もいい、すぐにまともなメニューに変わった。最近は同僚に教わって凝ったものも色々作る。なんとかっていう魚介の煮込みは最高だった。
            「あんたが俺に黙ってどこかに行った」
             ヨスタトは黙ったまま、魚の身をひとかけら、骨から外した。筋肉の繊維に沿った流線形が、上下の唇とわずかに見え隠れする歯の間に消える。俺は続けた。
            「俺はこの家であんたを探してうろつくんだが、一目で居ないって分かってる。無駄に歩き回るんだ、それに飽きたら庭に、その後は前の道路、婆さん家のまわり、あんたの職場、学校……どこにも居ないって分かってるのにあんたを探すんだ。歩き回って疲れたよ。寝たのにグッタリして目が覚めた……」
            「そいつは悪夢だな」
             ヨスタトは、水を一口飲んで笑った。
 … … …
             休みの日には大きく分けて二パターンある。平日に片付けられない大仕事やレクリエーションに時間を使って活発に行動するか、一日中ソファやベッドでダラダラ過ごすかだ。今日は後者だった。ヨスタトはなんでも職場でトラブルがあったとかで、庭のフェンスの塗り替えをする元気がないらしかった。肉体的な疲労より精神的な疲労のほうが大きそうだ。食後の運動もなしにして、ソファに寝そべって本なんか読んでいる。タイトルは「魚の飾り襟」。世界的なベストセラーだ。内容はひらたくいうと、余計な物を手に入れて身を滅ぼす話だ。例え話の中の魚は、豪奢な飾り襟のせいで鰓蓋が開かず窒息死する。
            「皿洗い、終わったよ」
            「ありがとう」
             俺は無駄なステップを差しはさみつつ近づいて、読書にふけるヨスタトから読みかけの本を取り上げた。
            「何するんだよ」言葉のわりに非難の響きはごく薄い。「山場なんだぞ」
            「どこがだよ。金貸しがふかふかのパンを食べてるところじゃないか。一番退屈なあたりだぜ」
            「パンがうまそうで山場なんだ」
             ヨスタトは適当なことを言い、空いた両手を頭の後ろで組んだ。楽しみを邪魔された事は咎めない。顔の印象に違わず優しい。
            「毎朝柔らかくてでかいパンを焼けば」俺はローテーブルに本を置き、ヨスタトの足元の空いたスペースに座った。「ずっとここに居てくれるのかよ」
            「なんだって?」灰色の目が丸くなる。無邪気な驚きだ。「ジルナク、ここは現実だぞ」
             その言いぐさが妙に癪に障る。現実、現実だから質が悪いんだ。俺は怯えてる、あんたが居なくなっちまいそうなのが現実だから怯えてるんだよ。夢を見たのは寝入りばなに不安を感じていたからだ、瞼を閉じる前に見た、隣のベッドで寝息をたてるヨスタトの背中が、どうしようもなく遠かったからだ……
            「レク、何か不満があるなら言ってくれ。俺、できるだけ直すよ」
             自分でも情けないほど必死な声が出て内心苦笑する。相手にもはっきりそう聞こえたようで、お疲れの年寄りふくろうはのそのそと身を起こし、やや呆れた面持ちで俺と向き合った。
            「お前、言うに事欠いてなに口走ってんだ。仕方ないな」彼は小さく腕を広げた。「ほら」
             困惑した。
            「なにがほら、なんだよ」
            「寂しいんだろ。来いよ、お兄さんが受け止めてやるから」
             俺は反論しようとしてやめた。ヨスタトはこれ以上ないほど優しく微笑んでいて、軽い口調とは裏腹に目つきは真剣だった。目。南国の暑熱にも容易に温まらない無機質な灰色は故郷を思い出させ、感傷的な気分になる。きっと本人は嫌がるだろうが、俺は自分が生まれ育った懐かしい冬をこの色の中に見いだすから、ヨスタトのことが好きなのかもしれない。もちろんそれだけじゃないんだが。俺は彼の好意に甘えることにした。思い切って勢いよく押し倒すと、ヨスタトはこの世の終わりみたいな呻き声をあげた。華奢でもなんでもない同居人の体重がもろにかかったからだ。
            「お前、自分がどれだけ重いか考えたことあるのか」
            「我慢してくれよ。お兄さん」
            「くそ、やめときゃよかった」
            「寂しくて泣いてる弟を抱きしめてくれよ」
             弟ならこういうことはしない、とかなんとか言うヨスタトの顔を覗きこむと、反射的に瞼が下ろされる。あんたの瞳が近くで見たかったのに。とはいえ折角だから閉じた瞼に唇で触れると、くぐもった声で俺の名前が聞こえてきた。
            「ヨスタト、俺を置いてどこかに行ったりしないで」
             やや苦しげにひそめられていた眉が、困ったような角度に変わる。ヨスタトは目を開けた。虹彩の細かい線条の一本一本まではっきり見える。
            「追われる身はもう沢山だ」
             俺はその綺麗な灰色を延々眺めていたかったが、やめにした。こういう時には目を瞑るのがマナーだと、親友にも散々説教されたからだ。唇を湿す吐息と髪をまさぐる指先の温度を感じながら、こいつの飾り襟は俺かな、なんてくだらないことを考えはじめている。