渡りのあと

 ジル、寒いからここに居てくれよ。ヨスタトはこういう時だけ俺の名前を縮めて呼ぶ。寒いわけがない、ここは常夏のイズカイアで、しこたま酒の入ったヨスタトの体は暑かった。こうしてベッドまで運んでやらなきゃならない程酔いつぶれるのは、彼にとっては珍しいことだった。前はたまに、何かから逃げるように泥酔して帰ってくることがあった。逃避、それ自体はそんなに悪いものじゃない。俺はベッドの端に腰かけたまま、二人でなんとか住み良く整えた家を眺めた。星明かりが眩しくて、夜でも部屋の隅々まではっきり見える。二人で穴空きだらけの床板を張り替え、家具を一つ一つ買い足していったっけ。壁の色には少しむらがあるものの、素人の手仕事にしては悪くないできばえだ。その一番広い面からは冗談半分で買ってきたばかでかい鳩時計が俺たちを見下ろしていた。これは時間になると虹色の鳥の人形が翼をはためかせながら飛び回り、同時に出てきた人間を食べてしまうという代物で、音がうるさすぎるので買ったその日から鳴らないようにしてあった。オンオフのレバーを見つけるまでの混乱を思い出し、俺は愉快な気分になった。座ったまま立ち上がる気配もない俺に期待したのか、ヨスタトの手が服の裾を引く。ジル、こっちを向いてくれよ。
 俺は仕方なくそうしてやった。体を傾けて覗きこむと、彼の眠そうに緩んだ瞼がまったりと閉じ、開く。ジル、もうキスはしてくれないのか?
「あんた、俺と違って明日もこのこと覚えてるだろ。馬鹿言ってないで早く寝ろよ」
 俺の呆れ顔が面白かったのか、ヨスタトはくつくつ笑って頷くと、寝返りをうって背を向けた。今夜は聞き分けがいいらしいな。これは助かる、朝になって挙動のおかしいこいつを当たり障りのない話題でフォローしてやるのは結構面倒なんだ。意外と照れ屋で困る。寝返りのあとにはすぐに規則正しい息づかいが聞こえてきた。俺の視線は彼のつむじから耳、首筋を通ってむきだしの肩へ、それからタオルケットに覆われた腰と太腿、一本だけのふくらはぎと爪先までをぼんやり滑っていった。こういう言い方はやや少女趣味が過ぎると思うが、眠る彼の姿がいとおしかった。今は悪夢の影もない。床に転がったままの義足は新調したばかりだった。奮発したから痛みも少ないらしい。
 俺は少し苦しくなって呻いた。心臓の真裏で蜘蛛がダンスしてるみたいで、痛みを感じる。もちろん痛いなんてのは嘘っぱちで、これは単にロマンチストの俺が心を心臓と同じ位置に置いてるってだけの話だ。心臓が痛んじゃ困る。なぜ痛むかの理由も分かってる。ヨスタトはこの世の最後の晩餐みたいな酔いかたをした時くらいしか、俺をジルとは呼ばなかった。今日は随分機嫌よく奮発してくれたな、人の気も知らないで。惨めさに襲われつつある俺の頭の中で、親友の声が響いた。
『ヨスタト!』
『なんだよいきなり』
『あなたが一番好きな鳥の名前』
 ネルにはヨスタトを紹介してから数日でばれた。さすがの観察力だ、なんでも目つきと声のトーンが違うんだそうだ。俺自身にもよく分からんが、彼女によれば後見人の話をするときの俺はつがいと巣にこもるジェンチリワシミミズクのオスくらいうっとりとした様子になるようで、本人を目の前にした時なんかは、することなすこと全部求愛のダンスに見えるそうだ。俺はさすがに真っ赤になって(顔から火が出そうだったしネルはめちゃくちゃ笑ってたからそうなんだろう)確認したが、余程親しくないと分からないくらいで、他人からはまったく普通に見えると聞いてそれなりに安心した。俺が親しいのは親愛なる鳥仲間くらいだから。だがそうすると一つ懸念が残った。ヨスタトは? 誰よりも親しい。相手にばれていそうかは怖くてネルに聞けなかった。酔ってとんでもないことをするのにはトラウマでなんとか言い訳がつくが、こっちはそうもいかない。少なくともむこうは俺をかわいい弟分だと思っているわけで、薄気味悪いケロイド男にそういう目で見られるのはごめんこうむるだろう。俺は少しだけ親友を妬んだ。俺がネルだったら、こんな心配せずに済む。まあ俺はネルじゃないから仕方ない。俺は俺でいるのが気に入ってる……
 ヨスタトは深めの吐息とともに寝返りをうった。こんどはこっち向きだ。俺は彼の寝顔の安らかなのに安心した。それからまたいとおしくてたまらなくなった。無茶とわがままでこんな所まであんたを連れてきたが、悪くないだろ。心臓を突ついていた蜘蛛は俺のことを噛んだらしい。自分が泣いているのに気づいて恥ずかしくなった。ヨスタトがふだん俺をジルと呼ばないのは正解のような気がする。俺のこれはきっと家族を失ったあの夜の続きで、彼は恋人をちゃんと葬ってやりたいんだろう。俺の火傷は目立ちすぎる。
 俺は顔を拭って自分の寝床に戻った。彼女でも作ったほうがいいかもしれない。彼氏でもいい、四年前のあの日と関係のないやつなら誰でも。