大通りを歩いていると、やっぱりこの街はリゾート地なんだという感じがする。浮かれた観光客はフルーツを挿したプラスチックのカップに色鮮やかな飲み物を並々と注いでもらって喜んでいたり、土産物屋で店員が勧めるまま大量生産の民芸品をあれこれと買いつけていたり、海からそのまま上がってきたようなビキニ姿を一応薄手のウインドブレーカーで誤魔化したりと忙しそうだ。たまにサングラスの向こうから俺のクールな火傷をじろじろ這いまわる視線にももう慣れっこで、特に苛立つこともない。どちらかというと日焼けしようが赤くなるだけでいつまでも生白い肌の色のほうが気になるようになってきた。ネルくらい黒くなってみたいもんだ。ネルといえば、今日は親戚の集まりがあるらしく、折角の午後休も二人でぶらぶらはできないとのことだった。残念だ。今から行く店は地元っ子のネルでさえ見逃していた穴場で、そこでは針金や金属板の切れっぱし、観光客がビーチに山ほど捨てていくプラスチックのかけらなんかで作られた動物のオブジェが売られていた。店の主人は首から下が余すところなく爪で引っ掻いたような奇妙なタトゥーで埋め尽くされたパンクな爺さんで、俺が州立大で生き物をやってる学生だと知ると、かなり喜んで色々な事を話してくれた。若い頃山で遭難したときに出会ったばかでかい猪の話とか、ハチドリが世界を作ったっていうイズカイアでも今は廃れぎみな神話とか。この店はまったくの趣味でやっていて、浜辺や工場で集めたゴミがいい具合に貯まったら、好きなように鳥や獣の形に変えるということだった。ネルは割と工作が好きだから(そこも気が合うところだ)、これには飛び付くだろうなと思った。本当はひとつ買って帰ってヨスタトに見せてやりたかったが、趣味の芸術は手間とセンスに相応しい値段で、高かったからやめにした。無駄遣いできるほど豊かじゃない。
ヨスタトは最近帰りが遅かった。多分、仕事が忙しいのとは別に人間関係が忙しいんだろう。寂しくないといったら嘘になるが、俺はそれをいい兆候だと思っていた。何せあの陽気な元上司は始終俺の事ばかり気にかけていて、好き勝手してるようでいていつも自分の事は二の次だった。学費の事だってそうだ、俺はあの日思わず愛するあしながおじさんを熱烈に抱き締めて頬にキスしたが(酔っていたせいにされた)、内心ではこの金で彼が何を買えたか、何ができたか考えていた。多分この家より良いところに引っ越せたろう。あるいは、高級ホテルにあるような上等な寝具が揃えられたかもしれないし、庭に噴水のひとつでも置けたかもしれない。ヨスタトは煙草を吸う以外にも、庭で長い時間過ごすことが多かった。俺はその背中を部屋の中から眺めはしたが、邪魔することはしなかった。家でも俺ぬきの時間があったっていい。近頃はそう思うようになっていた。親離れしないのは俺のわがままでしかない、こうして一緒に暮らしていれば、ヨスタトがいつか──
──目を覚ますと、やたらとぼやけた視界が白すぎる光で塗りつぶされていた。二三度まばたきすると、それが徐々に弱まってディテールがはっきりしてくる。だが、いくら瞼を上下させても、視界の右側はいっこうにクリアにならなかった。それを訝る間もなく、誰かの声が耳に届いた。
「ジルナク、大丈夫か?」
声のする顔を向けると、男が俺にしゃべりかけていた。安堵の笑みを浮かべたその男は、テレビの中ででも見慣れてそうな二枚目ではあったものの、全く見覚えのない人間だった。俺は起き上がろうとし、頭痛に顔が歪むのを感じた。くそ、月並みな表現だが、いまにも頭が割れて中身が飛び出しそうだ。俺は身を乗り出した男の服を掴んで聞いた。
「兄貴は……兄貴はどこにいるんだ?」大丈夫だ、と笑った兄貴の下に広がっていた血だまりが脳裏に浮かぶ。「いるんだろ? 俺の兄貴だよ、イスパ・ラムノク。なあ……それから、父さんと母さんは。みんなここに運ばれてきてるはずだ、一緒に居たんだから……」
続きはつぶれて呻き声になる。無理をしてまた起き上がろうとしたが、あえなく枕の上に落ちた俺の頭は、ばらばらになってしまいそうなほど激しく痛んだ。頭だけじゃない、身体中が痛かった。
「なあ、あんた誰だ……俺のこと知ってるってことは、兄貴の知り合いか? だったら教えてくれよ、兄貴は、母さんは、父さんは……俺の家族はどうなったんだよ。平気なのか……」
返事はない。俺は深呼吸とともに瞼を閉じ、激痛が鈍痛に変わるまでしばらく大人しくしていた。そのあと薄目を開けると、男は居なくなっていた。多分、幻覚かなにかだったんだろう。俺は気力を振り絞って目を開き、頭をめぐらせて幻覚以外の人間を探した。両隣のベッドにも怪我人がいたが、家族の姿はなかった。病院のスタッフは慌ただしく駆け回っていて、一人としてこちらに目をくれようとはしなかった。どこかからニュースらしき音が流れてくる。ガス爆発……老朽化したガス管……幸い死者は居ません……ガス爆発? 俺は記憶をたどった。確かにジェンチリ人だった。それに、明らかに死んでるやつが転がっていた。あれも生きてたのか。よかった、じゃあ親も兄弟も無事ってことだ。くそ、誰か来てくれ。俺の兄貴がどこにいるか、それだけが知りたい。それだけが。
退院するまでに幻覚ではなかった幻覚男から聞いたのは、俺はもう十六歳じゃないことと、家族が全員死んだことと、ここはニレじゃなくイズカイアだってことだった。馬鹿げた話で信じたくもなかったが、全て事実で受け入れるしか選択肢がなかった。俺は連れてこられた他人の家で、写真立ての中で他人と笑う自分の姿にぞっとした。幻覚男の義足が床を叩くたび、胸がざわついて恐ろしくなった。幻覚の名前はヨスタトで、どうやら後見人のような立ち位置らしいが、はっきりした所は分からなかった。この男の優しさは鼻についた。帰還したばかりであれこれ世話を焼くときの兄貴にそっくりだったからだ。黒髪とトーンの違う灰色の瞳、柔らかい垂れ目、こんなに見た目がかけ離れているのに、奴はどことなく兄貴に似ている。
初日はソファで寝た。自分が使っていたというベッドに入る気にはなれなかった。それはヨスタトのものと近い場所にあって、不愉快な距離だった。夜中には何度も汗だくで叫びながら起きたから、多分あっちにとっても、離れていたほうが助かったろう。まだ月も旅行の半ばという時間帯に目覚めると、チカチカする目玉の裏側に、さっきまで俺を楽しませていた悪夢の残りかすがこびりついている。大丈夫だ、と笑った兄貴の手のひらが凍りつき、笑顔が青ざめていく。唇が真っ白になり、その隙間からどす黒い血とともに、恨み言が溢れだし、やがて身動きできない俺を溺らしてしまうほどになる。ジルナク、お前はなんで生きてる。俺は死んだよ、母さんも父さんも、そこに座ってた女も死んだし、ウェイターも死んだ。みんな手足が千切れ飛んだ、お前はそんな火傷ぽっちで済んでる、俺は死んじまったのに……
繰り返す映像を、頭を振って払いのける。兄貴はこんなジメジメした奴じゃない。だが払いきれずに残った欠片が俺の呼吸をめちゃくちゃにした。息がうまく吐けずに肺の中へ溜まっていく。俺は咳き込み、もがいた。ヨスタトはすぐに起きてきて、ゆっくり息をしろ、とかなんとか言いながら緩やかなリズムで俺の背中をさすった。それに合わせて千切れた自分をかき集めると、やっとまともに息ができるようになった。だが感謝する気にはなれなかった。こいつは俺の何を知っているんだろう。胸がむかつきだした。何を知ってる。灰色の瞳は凪いでいた。こいつは俺の、何を。