悪いオンナ

「ジル、不機嫌」
「何がだよ」
 いきなりなにを言い出すかと思えば。親友のネルシャ・リノツクは返事もせずに、意味ありげな笑顔のままストローに口をつけた。あの色男のヨスタトはわざわざ観光客がよく使うハートの形のストローを挿してやっていて、一方俺にはそのままでいいだろ、と本当にそのままグラスを出してきていた。夏真っ盛りのイズカイアの陽光は店名が鏡文字で描かれた窓の外に眩しく閉じ込められていて、空調のきいた室内では氷も溶けることなくコーラの中に浮かんでいた。ネルはようやく俺の質問に答える気になったらしく、唇から離したストローを吹いてくるくる回した。
「何がって。あれ」
 横目に向いた視線の先ではヨスタトが客の相手をしている。客というのは俺の大学の同級生で、確か樹木医志望のラスティラ・チトックだ。人気者のネルシャとつるんでいるとこんな見てくれの俺でもそこそこ知り合いが増えていた。彼女は細かく編んだご自慢の髪型を褒められて嬉しそうにはにかんでいる。
「ほーら、ジルナク……自分の顔を鏡でみてごらん。そのままそのまま」
 ネルシャは俺に向かって自分の手鏡をつきつけた。観葉植物を背景に、見慣れた仏頂面が映り込む。意図が全く分からない、いい加減にしろという気持ちを込めて手鏡を押し戻すと、ネルはおとなしくそれを鞄にしまいながら、あろうことかくすくす声を出して笑いはじめた。偶然、それに向こうからの笑い声が重なる。どうやらヨスタトがまた甘い言葉のひとつでも囁いてやったらしい。かわいそうなラスが目の中に星を浮かべてうっとりと眺めている様子は見るまでもなくはっきりと頭に浮かぶ。そろそろあの軽いおしゃべりはやめさせたほうがいいかもしれない、そのうち誰かを傷つける。学友の何人かは気まずくなるほど俺の同居人に夢中で、彼はフリーなのとか彼の好みはとかあれこれ聞いてきて辟易させられていた。いい迷惑だ。俺は自分の飲み物を眺めた。氷の上でパチパチはぜる細かな雫はランダム性に溢れていて、いつまでも見ていられそうだった。もっとも、いつまでもという訳にはいかない、そのうち気が抜ける。
「おいおい、これで不機嫌なら俺は生まれた時から不機嫌だぜ……」
「じゃあ教えてあげる、ちょっとこっち来て」
 俺は肘をつき、体を前に傾けた。ネルも同じようにする。もうちょっと、と言われてさらに顔を寄せると、ネルが突然腰を浮かせて俺の頬に口づけた。唖然としているとその目が何か言いたげにする。無言で促す先を伺うと、厨房から出てきたばかりのヨスタトが俺の視線から逃れるように目をそらした。
「あーあ」じゃじゃ馬娘は大きく伸びをしながら背もたれによりかかった。「悪い種撒いちゃった」
「さっきから何が言いたいのかさっぱり分からん」
「分かんないなら秘密にしとこ。さ、気を取り直してレポートやらない?途中まで写させてよ」
 じゃあ奢れよ、にはしょうがないなあ、が返ってきて、俺達はまた何事もなかったかのように普通の一日を過ごしはじめた。俺はこの時ネルが撒いたという悪い種のどこが悪いのかきちんと聞いておくべきだった。結果として、俺はヨスタトに向かって信じられないような台詞を口走り、取っ組み合いの喧嘩をした挙句とんでもないことになるんだが、それはこの段階では知るよしもない未来の話なのだった。