悪い汗

 俺は我慢ができなくなった。そろそろ許容できないほどペンキの剥げた壁を塗り直していると、刷毛の後ろに伸びた真新しい白の上に、ヨスタトの姿が浮かぶ。お嬢さん、とやつは微笑んだ。言われたほうの顔も浮かぶ。うっとりと夢見る瞳。くそったれ、と俺はせっかく綺麗に塗った壁に向かって刷毛を叩きつけた。何度も何度も。乾きかけの塗料が新しい層の下ででこぼこになった。雨でも降ったような斑点が飛び、広範囲が台無しになる。そうして重みに耐えられず垂れていく斑点のように、俺の襟足から汗が一滴流れ出て、うなじを通って背中を滑り降りた。向かいの婆さんにもらった麦わら帽子の広いつばは日焼けから頭と首の後ろを守ってくれてはいたものの、暑さだけはどうにもならず、全身が汗だくだった。霧吹きでしつこく濡らされているようだ。ただし、暑熱に慣れない北国生まれの汗腺は、やたらとべたついて不愉快な液体ばかりつくり、やりきれないほど湿った空気に言いようもない粘り気を添えていた。俺は刷毛を持ったままの手の甲で額を拭った。後から後から滴ってくるから意味がない。ぶら下げていた缶を足元に置き、地面から立ち上る異様な熱に驚いてまた取っ手を持ち上げる。こんなところに置いたらあっという間にカチカチになるかもしれない。自分の仕事を終えられなかった俺は、照りつける太陽をものともせずに繁茂する雑草をサンダルでかき分けて、ガレージまで戻ることにした。ものともせずに、なんてのは大嘘で、この強すぎる光と熱とは、実のところ、目に見えるような戦いの道具などではなく、太古になされた植物族との取り決めで注がれているらしかった。
 ガレージは思ったより涼しかった。日陰によって遮られる天のお恵みの温度と風通しが悪いせいで篭る熱気とでは前者のほうが大きいらしい。ほのかにガソリンや機械油の香りがたちこめるこの場所に、開けっ放しのペンキ缶から有機溶媒の甘い臭気が混ざりこむ。俺はデッキチェアを探した。つい最近ネルから貰った、というか押し付けられたものだ。なんでも、買った瞬間にもっといいのがくじで当たったんだそうだ。幸運のお裾分けはこの国のいい文化だと思う。結構大きめのこの家具はまだどこかに畳まれているはずだ。探すといっても大した広さじゃない。車を挟んでこっちになければあっちというくらい単純な、ポイントクリックアドベンチャー。俺はペンキ缶にしっかりと蓋をして作業台の上に置き去りにし(さびしがらないように頭を撫でてやった)、車の向こうへ回り込んだ。
 デッキチェアの上にヨスタトが寝そべっている。こんなとこで勝手に使いやがって、と小言が出てくる前に、視界に入ってきたものに不思議と動揺させられた。組んだ腕に頭を乗せてくつろぐ彼のシャツは上から下までボタンが外されて、普段はかたくなに隠している胸の痘痕が惜しげもなく薄暗がりの湿った空気に晒されている。俺は目のやり場に困って視線をそらし……かけてやめた。なんで困る必要がある、別に絶世の美女って訳でも、暴力亭主からかくまってやっている人妻って訳でもない、それに他人の肌に遠慮するにしても、風呂上がりの全裸のヨスタトなんか散々見慣れている。今さら少しはだけた位でどぎまぎするほどウブでもないだろ。
「おい、こんなとこで何してんだよ。芝生は」
「ああ、悪いなジルナク……ここは満員だ」
 ヨスタトは目を閉じたまま、眠そうな声を出した。今まで半分寝ていたのかもしれない。側まで行くと、暗い中でも俺の影がくっきりとヨスタトの上に落ちる。セクシーな胸元に気をとられていて見逃していたが、義足まで外して椅子に立てかけてある。こいつ、思ったより本格的にさぼってたんだな。俺は返事もせずにヨスタトの身体をじろじろ眺め回した。決定的にアンバランスな要素がありながら、つりあいの取れた体つきはそれだけで他人の目を引くところがあった。筋肉質ではあるものの、俺の兄貴とは全く違う。兄貴は鍛えるとデカくなるタイプだった、だいたいのニレ人がそうであるように。ヨスタトにはその端正な顔かたちにもほのかに異国情緒を感じるところがあるし、三代遡れば国境を越えるかもしれない。
「こんなところでつっ立ってないでシャワーでも浴びてこいよ。さっぱりしたら飯にしよう」
 俺があれこれ品定めしているのを察したのか、眠り姫は邪魔な観察者を追い払いにかかった。俺は大人しくその場を離れ、確かに不快でやりきれなくなっていた汗と汚れを洗い流しにいくことにした。
 タイルを叩く水音を聞きながら、俺はまたヨスタトの職場での姿を思い出している。朗らかで、愛想が良くて、ハンサムな異国の男。あれでもてなかったらどうかしてる。どうかしてるが、どうなんだろう。あせもになりかけの首を擦っていると、疑問が浮かんできた。熱視線を送ってくる女のうち誰かと深い仲になろうって気はあるんだろうか。俺は悶々としはじめた。ヨスタトが同級生と付き合いだしたらさすがにそれは気まずすぎる。かといって全く見ず知らずの相手ってのも考えものだ。なにせ二人で暮らしてる、変なのを連れ込まれちゃたまらない……
 ハンドルを回すと、水が止まる。中途半端に忍び込む真昼が浴室に貯まって、やがて滴る雫とともに排水溝に流れ込んでいく。俺は自分の足の爪を数えた。ヨスタトのは五つ足りない。俺は自分の鎖骨を掻いた。ヨスタトのこのあたりは凸凹だらけだ。そのどちらも、彼の追っかけは知らない。もちろん義足だってことくらいは見れば分かるが、そういうことじゃなく、それがどうやってもたらされたのかを知らない。そうだ、彼女らは、あの快活なヨスタトの瞳の奥で冷えきっている感情を知らない。俺は優越感に似たものを覚えた。同時に罪悪感も。俺はあの爆発で負った傷がどんな風に痛むか知っている。鏡を見るたび、あの日が俺を見返すからだ。それはヨスタトにとっても同じだろう、俺は彼を、そして彼も俺を知っているから、俺といる限りヨスタトはあの日から逃げられない。力を込めて手首をひねると、またシャワーの水が降ってくる。それをわざと火傷しそうなくらいに熱くすると、日焼けで弱った肌が痺れた。この気温に関わらずもうもうと立ちのぼる湯気に包まれ、夢見がちな表現をするなら、イズカイアの空の濃すぎる青の縁から涌き出てくる入道雲に紛れ込んだような、そういう気持ちにさせられる。きっと太陽に近いからこれくらい熱いんだろう。
 俺はそろそろ我慢ができなくなりそうだった。取り返しがつかなくなる前に、あいつにきちんと聞いておかなければならない気がした。でも何を? 適切な質問ってのは単純な質問だ。だが聞きたいことが山ほどあって、何から手をつけたらいいか分からない。真夏の雲の中で、俺は困りはてている。