同居人の帰りが遅いのをいいことに、ここ何日か夕飯は少し雰囲気のいい店を開拓することにしている。ジルナクが新しい知り合いと杯を交わして星の裏側を飛ぶ鳥の話をしている間、俺は観光客でごったがえす屋台村や地元でひそかに愛される有名店に足を踏み入れ、大雑把だがなかなか深いイズカイアの味に舌鼓を打っていた。あいつに暇ができたら連れていってやるつもりなのか、あるいはちょっとした復讐のつもりなのか、リストには文句なしにうまい料理にありつける店の名前が毎夜加わっていた。我ながら鋭い嗅覚と情報収集力で、金額以下の夕飯に落胆したことはない。今夜もなんとかという家庭的な揚げ物を堪能し(捕れたての白身魚に店主自慢のソースがとてもよく合った)、満足して家まで帰るところだった。うまい飯を食うと左足も腹ごなしにする散歩に文句は言わず、むしろ普段より軽やかなほどの足どりで路面を叩く。遠回りの帰路の途中にあるのはこの地域でも指折りの高級住宅街で、歪みやひびのひとつもなく舗装された道は、育ちのいい住人よろしく通る誰しもに微笑みかけていたし、家々の灯す暖色の明かりは南国の湿った夜気に溶けて幻想的だった。低い塀の向こうの庭を彩るいかにもな亜熱帯の植物は、深い切れ込みの無数に入った大きすぎる葉を地面に垂らしてまどろんでいる。うちの庭にもああいうのを植えたらどうだろう、想像しはじめてすぐジルナクが顔をしかめた、おい、こんなでかい草を植えるなよ。晩餐にアルコールを添えたせいもあってか愉快な気持ちの俺の影は、洗練されたデザインの家屋のひとつひとつを通りすぎるたび、地面の上をくるりと回った。
こんな所で自由に踊れる影がうらやましくなりかけてきたところで、次の角から耳慣れた声が聞こえてきた。俺は出かかっていた鼻唄をすんでのところで引っ込めて、足音を殺し塀に寄った。ジルナクと、見覚えのない若い女。多分あいつの“鳥仲間”だろう。二人は楽しげに話し込む様子で、耳をすますとそれがどんな類いの会話か容易に聞き取れる。ロマンチックな夜とほどよく温まった身体、私の家でもう一杯どう? というやつだ。昔とった杵柄、悲しい性か、俺は音もなく盗み見聞きにちょうどいい暗がりに滑り込み、弟分の私生活を覗く悪趣味な男に成り下がった。普段浮いた話のひとつもしないジルナクがどう振る舞うか気になっていた。ラフな服装のジルナクは、こちらに背を向けて立っている。相手の方はというと、淡いライティングの効果を差し引いても間違いなく美人と言いきって良さそうだった。イズカイア人の健康的な小麦色の肌とショートカットにした美しい黒髪、知的な微笑と引き締まった身体つき。俺の弟分は隅に置けない、ネルシャといい、綺麗どころと仲良くなるのが上手いらしい。二人のお喋りは甘い誘いと学術研究の間を何度も行ったりきたりした。ジルナクはまんざらでもなさそうで、相手へいくつも賛辞を捧げていた。着眼点がいい、いまに水鳥の権威の称号はあんたのものになるよ、相手が居ないなんて驚きだな、どうせ俺の同居人は寝こけてる……もちろん相手も同じだった、あなたのアドバイスのお陰ね、才能があるわ、これから一緒に仕事するかもしれないわね、ジル、あなたって素敵よ、本当に。特にその……
俺はなぜかこの続きの光景から目を背けたくなった。彼女が次に何をするか分かりきっていた、完成された映画のワンシーン、過去の傷痕に触れる女を異国の男は黙って受け入れ、そして俺が触れるといつもそうするように、火傷の痕を撫でる手のひらに僅かな重みを傾けて、どこか懐かしげに目を細め、相手の名前を愉快そうに口ずさむ……
「おい、そういうのは別の奴にしてくれないか。普段から目で撫でくりまわされてるんだ、マナー違反にはうんざりしてる……あんたがそんな品のない人間だとは思わなかったよ」
耳朶を打つ冷ややかな声色に芝生の影の境から視線を上げると、胸の前で中途半端な高さまで上げた手を所在なさげに浮かせたままの彼女の当惑した姿が目に入る。ジルナクはあろうことか、伸ばされた手を払いのけたらしかった。悪かった、あれは完全に言い過ぎだった、でも誰だって触れてほしくないことはあるだろ、などと言う彼に対し、彼女はそれまでの熱っぽい笑みを萎れさせ、目を伏せたまま、ごめんなさい、とだけ返した。二人がおやすみを言って別れるのを、俺は瞬きもせず見届けていた。
多少無理をして最短ルートを選んだ甲斐あって、俺はまだ真っ暗な家に帰りつくことができた。最低限の身支度をこなしてベッドに入る。あいつがドアを開けたとき、俺は健やかな眠りの海をたゆたっている必要があった、見た目だけでも。実際はとてもじゃないが眠れそうにない。シーツの皺がいくら伸ばしても完璧には平らにならないように、意識のあちこちでたつさざ波を鎮めることはできなかった。“誰だって触れてほしくないことはあるだろ”。このおおらかな国の空気にあてられて軽率になりすぎていた自分を恥じた。俺はまったくどうかしていた、こっちの過去はソケットと服の下に隠れているが、あいつのはそうじゃない。常に他人の好奇の視線に晒されているんだ、わざわざ追い討ちをかけるような真似を、あろうことか毎日顔を突き合わせている相手にされて今までよく耐えていてくれたものだ。俺はあいつの兄貴ではなく、ただの他人だった。勘違いしかけていた。この嘘のような南の楽園で。
ジルナクが帰ってきてからも、夜は順調に更けていった。もぞもぞとタオルケットの下に潜り込んだ同居人の寝息を聞きながら俺もいつしかうとうとしたようで、次に瞼を開いた時には窓の外の燦々と照り輝く陽をカーテンが濾過し、部屋は澄んだ光の明度で満たされていた。緩慢な動作で身を起こし、視界の端にうずくまる白髪頭の男の姿を認めて安堵する。普段通りの一日の始まりだ。俺は普段通り義足を着けて、普段通りコーヒーを沸かし、起きてきたジルナクへ朝の挨拶、それから軽い食事を用意して、普段通り身なりを整え、普段通り仕事に出た。ジルナクは一連の流れの間じゅう何かの論文を読んでいて口数が少なく、俺は態度を繕う必要もないのに感謝した。
しかし数日後の夕方、俺はまたやらかした。ソファの上、貰い物のスナック菓子をつまみながら興味もないスポーツ中継を流し見ている時だった。俺はジルナクの鋭い横顔の目元に疲れを感じとり(隈こそないものの、どことなくどんよりしていた。レポートとフィールドワークであくせくしている)、
「なんだよ、撫でてくれないのか?」
「いや……」俺は面食らった。上手い返しが思い付かない。やっとひねり出したのはお粗末な説明で、随分なまったな、と自分自身に呆れたくなった。「お前は俺の足を撫でたりしないだろ」
「は?」ジルナクは意外そうに目を丸くした。「どういう話だよ」
「気安く触られたくないんじゃないか、火傷の痕なんかに。俺がお前ならごめん被るからな。そう考えて反省したんだ」
誤魔化し半分に肩をすくめてみせると、きょとんとしていた若者は妙な顔つきになった。鼻の頭が痒いのを我慢しているようにも、真剣に思い詰めているようにも見える。それが芝居がかったニヒルな笑みに変わり、俺の配慮を鼻で笑ってこう返事した。
「馬鹿言うな、顔の半分なくなってるならまだしも、ただのつまらんケロイドだぜ。十六の頃からこの面をぶら下げて生きてんだ、今さら気にすることでもないだろ……」