その日は朝から浮かれて過ごした。休みを合わせてデートだなんて、思えば生まれて初めてだ。近頃はヨスタトもそこそこ忙しい。ダイナーのハンサムなウェイターだけでなく、ちょっとしたコンサルタント業までかじるようになった。彼は無駄を省くのが上手かった。俺の方はというと、重たいレポートを片付けてしまって(それこそ大岩だった。ネルにイズカイア語の文法についてまる二日指導を受けた)、隙間の暇を楽しんでいるところだ。ビーチの貸し切りは小さいとはいえかなりかかったが、俺は全く後悔やもの惜しさを覚えなかった。天候は申し分なしの青い海、白い砂浜、隣には水着姿の美人とくれば文句を言う奴はそう多くない。ビーチチェアに沈むヨスタトの引き締まった肉体はパラソルの影の下、不思議と青白く見えた。長く伸びた脚は片方が半端な長さで終わっていて、俺の位置からはよく見えた。もう一つのチャームポイントはこの期に及んでタオルなんかで隠されてはいたが、本人が隠しているときそれは
「なあ」俺は昼寝の姿勢で海を眺めるヨスタトに向かってのんびり呼び掛けた。「泳がないか」
「もう散々遊んだろ。一人で泳いできてもいいのよクークー、ママが見ていてあげるからね」
「それはいつでもできるからいい」冗談をはたき落としてもママの顔色は変わらない。視線も水平線を漂っている。「俺はあんたとじゃなきゃできないことがしたいんだよ、こういう時くらい……」
身を乗り出して彼の太腿をそっと撫でると、このお堅い兄貴分は露骨に嫌な顔をする……という予想に反して、ヨスタトは至って平然としていた。鋭さを抱えた甘い顔立ち、まっすぐな鼻梁の美しい横顔はそれまでとなに一つ変化を見せず、鉄色の瞳は零度の清らかさを保って依然そこに海を映し込んでいた。彼の瞳の中で南国の青は気候帯の異なる寒々とした海に変わる。いや、湖だ。ニレに海はない。俺は激しい郷愁を感じ、そこへ自分の姿を加えたくて仕方なくなった。匂いも感触も濃く重い楽園の空気はその欲求を尚更強くする。ここは天国だが、俺はいまだに馴染みきれないと思う時がある。
「ジルナク、そろそろ手をどけろ……でなかったら始めるかだ」
「始めるって何を?」
彼は呆れたように笑い、単純なジェスチャーでもっと近くへ来るように指示した。そのとおりにした俺は胸ぐらを掴まれてバランスを崩し、危うくヨスタト上へ落ちかけた。すんでのところで椅子のひじ掛けを掴み、難を逃れる。さっきまで遊んでいた掌は急な刺激にじんじん痛んだ。目の前のヨスタトは品定めするかのように俺の頭から脚までを眺め回し、鼻を鳴らしてまた笑った。
「自分から仕掛けておいて分からないのか」
ようやく意味を理解した俺はわざととぼけた。「どういうことだよ」
こういうことに決まってるだろ、と言わんばかりに、ヨスタトの唇が俺のそれに押し付けられ、柔く食み、遠慮の欠片もなく舌先が前歯の表面を撫でた。俺はお粗末な演技をやめて彼を迎え入れ、しばらくの間戯れた。彼の手が自然と伸ばされ、頬を滑って襟足のあたりを撫でる。俺もひじ掛けから手を離してしまって、座面に乗り上げ幾分楽な姿勢をとった。ただ安物のビーチチェアに男二人ぶんの体重は決して楽とはいえないらしく、キスが盛り上がるにつれて嫌な音を立てて軋んだ。俺たちは悪戯のばれた悪童のようにどちらからともなく笑いだし、大人の遊びはそこでひとまず終わりになった。俺は砂の上に腰を下ろし、サンダルのかかとをそこへ埋め込んだ。後でまた海に入り、砂を落とすつもりでいた。
「座らないのか?」
「いいや。それよりこっちで続きをしないか?」心にもない提案に、馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりの曖昧な声が降った。「砂が柔らかくて気持ちがいい」
「晴れてよかったな」と言いながら、ヨスタトは俺のいる側の手をひじ掛けの外へぶら下げた。「先週までハリケーンがどうとか言ってたが、消えてくれて助かった」
俺は返事もせずにヨスタトの手をとり、初めて人間を見た赤ん坊の猿よろしく隅から隅まで観察した。関節の悪目立ちしない均整のとれた構造、単純にものを掴む以外にもあらゆる動きをやってのけるこの種最大の武器のひとつ……ヨスタトのは特に器用だ、先月もおんぼろ無線機を見事生き返らせてみせた。
「なあ、ヨスタト……あんた、今度はどこへ行きたい」
「どこって」
「それを聞いてる。まさかイズカイアに永住するつもりじゃないだろ」
「大学があるだろう」
「なんで俺の事情が出てくるんだ? 関係ないだろ。あんたがどこへ行きたいか聞いてる」
ヨスタトの指に痙攣が走った──ほとんど錯覚に近い、ごくささやかな痙攣が。
「ここでの暮らしが嫌になった訳じゃない。ただ……」俺は自白を聞いている気分になった。ヨスタトの声色にはどこか気まずさを取り繕うような響きがある。それはこの会話の主旨として望むところではなかった。「ただ、違うだけだ」
「別にあんたのポリシーにどうこう文句をつけたい訳じゃないさ」俺はやっと行儀の悪い遊びをやめた。「置いていかれるのはうんざりなんだよ。特にそれまでニコニコしておいて、明日もここにいますよ、みたいな具合でいる人間に置いていかれるのは我慢ならない。出ていくんなら、行っちまうんなら、挨拶の一つくらい寄越してからにしろよ。さよならのひとつも言わないなんて、そいつは少し薄情すぎやしないか……」
ヨスタトは長いこと黙っていた。潮騒の音がやけに大きく聞こえるのは、ここが静かだからだ。寄せ返す海の水は冗談みたいに澄んでいて、少し沖の方へ目を向ければサーファーがよだれを垂らして飛び付きそうないい具合の波が巻いている。俺は沈黙に飽きてしまってこう付け加えた。
「俺との時間は十分楽しんだろ。気にするなよ、あんたに続きがなかったとしても、俺には俺の続きがある」
ヨスタトの手が引っ込んだ、かと思えば俺の額におそるおそる触れ、まるで初めてみたいに慎重にケロイドの畝を探った。俺はじっとしていた。こいつの考えていることは分からない。ただ、もう十分苦しんだのは確かで、できれば楽に息をしてほしかった。ただ俺だってもう二度と置いていかれるようなことはごめんだし、これは折衷案だ。さよならだけは俺にくれ。あとはどうとでもなっていい、俺が決めることじゃない。
「ヨスタト?」日が暮れるまでそうしていそうな気配がしたので、結局声をかけてしまう。「それであんたはどうしたいんだよ」
彼は意外にも、分からない、とこぼした。分からない、ジルナク、俺は一体どうすればいい? 普段の斜に構えたクールな言い方でも、こちらの機嫌を窺う狡い言い方でもなく、人生に倦み疲れた爺さんの口ぶりで、それでいてスーパーの迷子みたいに頼りなげだった。俺はそこで初めて──この会話の中で初めて、ヨスタトの顔を見た。視線がかち合う。この男はこれまでの間ずっと、ひとの手で遊ぶ弟分の姿を見ていたらしい……
「ジルナクはこう言ってる」と、俺は兄貴が好きだった言い回しを剽窃した。「苦労して書き上げた博士論文を読んだヨスタトに、よくわからんがよくやったな、なんて適当に褒めてほしいし、その晩は町いちばんのレストランに出掛けていって、予約で満席だって断られたあとそのへんの店に入って一番高い料理を頼みたい」
「それから」
「それから、どうだろうな……どうでもいい。俺に聞くなよ。人のやりたいことなんか分かるはずないだろ。たまの休みだってのに」
何だか面倒になってきた。俺は不鮮明な青写真をいじくりまわして遊ぶより、この時間を楽しみたかった。立ち上がれば海は誘うように水面をきらめかせ、スカートの裾を振るように小波をはためかせた。日焼けこそしちゃいないが暑さは暑さだ、死にかけの夏の最後のがんばりにのぼせかけの身体を冷やしたかった。
羨ましくなったら後から来いよ、と言い残して置いていくと、椅子の上でだらけっぱなしのヨスタトがぽつりと呟くのが聞こえてきた。俺もそうしたい。