そんな自由な君が好き

 ヨスタトは朝から妙にご機嫌だった。鼻歌どころじゃなく堂々と古くさいラブソングを口ずさみ、義足をうまく使って床板を楽器に変えた。七時前の太陽は新人の照明係、ヨスタトが大袈裟な身ぶりでカーテンを開くと、庭に面した大きな窓からスポットライトが射し入って、主演俳優の寝癖のついた黒髪の先を透明にした。俺は沸騰した湯に卵を放り込みながら、軽やかなステップが強すぎる光の中で埃を舞い上がらせるのを見つめていた。綺麗にはしてるが、この手の明かりは電球ごときじゃ捉えられない小さな共演者の姿を浮き彫りにする。潔癖症なら悲鳴ものだが、そんなに悪い眺めじゃなかった。ヨスタトは楽しそうで、そのうきうきした足どりが砂金を振りまいているようだ。魔法の靴を拾った乞食のヤズロク。ニレの人間なら誰でも知ってる話だ。遠い昔家族で見に行った劇を思い出す。おいらはヤズロク、陽気な男さ、腹は空いてもお歌は枯れぬ。そこ行くお方、道のコインを探すのは俺の仕事だよ、さあ顔あげて、今日もいい日だよ、ラ・ララ……歌につられて厚切りにしたハムが景気よく脂を飛ばす。俺はついリズムを取って小刻みにフライパンを揺らした。ハムから出た脂なんかでパンケーキを焼いたら、あいつ怒るか?
 食卓の準備は山場を越えて休息期間に入っているらしい。背後からは静かなハミングと食器を並べる音だけがしている。ミルクを注ぐ音、サラダボウルを混ぜる音。それからなにか取りに来るのか、足音がキッチンに近づいて──なんだ、妙に寄り道が多いな。おまけに派手な足音だ。とどめのようにヨスタトの伸びやかな歌声がそれに重なる。こいつフィナーレをはじめたらしいな。まあいいか、と焼きあがった(少し焦げた)肉が皿の上で跳ねるのとまったく同時に、俺の腰に腕が回された。フライパンを取り落としそうになる。
「ふざけんな、危ないだろ! あんたを火傷させるところだぜ」
 ヨスタトは謝るどころかこっちの台詞を聞き流し、俺の耳元に歌の続きを吹きかけながら、それに合わせて身体を揺らした。腹の前でしっかり組まれた手のせいで、俺も一緒にリズムをとる羽目になる。ヨスタトの体温で背中が暖まる。どういう風の吹きまわしだか分からんが、この温度で俺の脂は溶け出しそうだった。やりにくいなりにコンロの火を再点火、まだ熱い鉄の上にパンケーキの生地を垂らす。焦げがそのままだから多分汚い仕上がりになるだろう。
「ダーリン、無精はよくないよ。でもそんな自由な君が好き」
 本当は「ダーリン、涙は似合わない。だけど泣いてる君も好き」であるところを、彼はくだらない替え歌にした。首筋に唇が押しつけられるのを感じて、俺は正直苛立ちを覚えた。そういうのは夜にやれよ。いくらでもお返ししてやれるのに。パンケーキの焼いてない面があぶくを立てて、セクシーなヨスタトのタトゥーそっくりに見える。俺はフライ返しを丁寧に使い、へばりつく生地をうまく剥がしてひっくり返した。予想通り芸術的な紋様ががくろぐろと浮かんでいる。まあ、重曹の臭いよりハムの残り香のほうがずっといい。割と食欲を刺激する匂いが立ちのぼった。
「ヨスタト、もうあっち行けよ。そうやって……ああ、くそ……悪ふざけしてないで果物でも剥けよ」濡れた舌の感触に、情けない声が漏れる。こいつ腹減ってんのかな。「今日なんかいいことでもあんのか?」
「あるさ、今日はお前の誕生日だろ。休みを取ったから海にでも行こう。山でもいいぞ」
 俺はヨスタトを振り返った。それに合わせて身を引いてくれたから、彼の顔がよく見える。つくづく思うが、こいつの顔は一級品だ。本当にミュージカル俳優ならポスターを壁一面に飾った上で、ブロマイドに毎晩キスしてる。その上いまは蕩けるような微笑みが浮かんでいて、瞬きひとつさえ柔らかく、優しかった。
「忘れてたよ。そうか、なるほどな……」俺はぼんやりした頭の中で、今日したいことを考えた。海か、今日なら無理をいってこいつを泳がせてみることもできそうだ。山もいい、公園で最近整えたハイキングコースを試してみるのも悪くない。が、今朝からのこの雰囲気にはもっと相応しい過ごし方がありそうだった。
「じゃあ映画、観にいかないか。あんたの好きそうなのがやってるよ」
 ヨスタトは意外そうに首をかしげた。「お前、ミュージカル嫌いだろ」
「まあ、確かに舞台上でもないのにいきなり歌い出す神経は俺にはよく分からん」舞台上でもないのにいきなり歌い出した男に向かってこれはちょっとまずい。俺は笑った。「でも今日は好きなんだよ」
 色男はつられ笑いを転がして、それから急に慌てた様子で俺の手もろともフライ返しを操り、パンケーキをハムの上に落っことした。真っ黒だ。火を消し、道具を手放すと、みじめな失敗の印象がますます強くなる。
「ウー、ひでえ。ヨスタト、ごめん。こいつは俺が責任をもって処理するよ」
「いいや、主賓にこんなゴミを食わせるわけにはいかないさ。俺が焼いてやるよ、バターをたっぷり使ってな」
「主賓に朝メシ作らせた上にゴミ呼ばわりかよ。あんた本当、いい性格してるよな」
 憎まれ口を叩きながら、俺はヨスタトに身体を寄せて、その肩に顔を埋めた。うっすらと煙草の匂いがする。温かい手のひらが背中を緩やかに叩く。
「泣いてんのか? そんなに落ち込まないで、あたしのクークー、パンケーキが何よ……」
「こんなんで泣くかよ」歌うヨスタトの裏声はやたらともっさりしていておかしかった。「でもあんたの厚意に甘えさせてもらうかな」
「よしきた」
 俺はエプロンを脱いで渡した。ヨスタトはそれを二つ折りにして腰に巻き、俺をキッチンから追い出すと、爪先で調子を取りながらまた陽気に歌い出した。楽しげに揺れる背中がたまらなく愛しく思え、俺も小さくハミングする。腹が空いたら何でも食うさ、魚に鼠に虫に雑草、膨れりゃいいのさ胃袋が。心が空いたらそうはいかない、心を満たせるものは愛だけ!
 容赦ない量のバターの塊が落とされると、舞台はたちまちいい香りに包まれる。