It Hurts To Say Goodbye

 ヨスタトが出ていった日、俺は予約していたレコードを受け取ったような気になった。住人が減って妙に空き箱じみて見えたこの部屋も、今は本当に空き箱だ。二人で徐々に買い足していった家具は、全部一人で処分した。使えるものは人にやり、使えないものはトラックに積み、金を払って廃棄場へ……
 彼が消えたがっていることは、始まる前から分かっていた。逃げたいって言葉は真実だった、あんたにとってはニレの暖房なしじゃとても生きて越せない冬の夜も、イズカイアの能天気なかんかん照りも、予防注射と変わらなかったわけだ。俺のことも。最後の数日、失踪の意志などおくびにも出さずに俺と魚釣りの予定を立てていたあいつの横顔を思い出す。置いていかないでくれ、なんて身勝手なことは言うべきじゃなかった。まさにあの時、俺はあいつのひしゃげたパスポートに判を押したんだろう。観光ですか? 違う。では就労? おや、それも違う。なら、移住ですね。ふむ、違うと。では乗り継ぎでしょうか?ああ、なるほど。あなたの顔が逃亡者のリストにないか調べてみますよ。
 俺はダッフルバッグのファスナーを閉めた。二人では少し手狭だったこの家は、一人だと広すぎた。大学の近くには空いてる部屋がいくらでもある。値段はピンキリだが、ヨスタトが置いていったものが多少は金になったから、そこそこ満足いく枝に落ち着くことができるはずだ。ちゃんとした部屋が決まるまでのつなぎとして借りたボロ屋の屋根裏も、案外住み心地は悪くないかもしれないが。俺はひと息ついて、空っぽになった古巣を眺めた。今となっては信じがたいような日々の痕跡は、まだそこかしこに残されていた。一番は二人で文句をつけ合いながら塗った壁だろう。次に、ちゃんとした義足に買い替える前につけられた、床板の細かい傷。俺はそのひとつひとつの写しをとって残しておきたいような気がした。勿論、そんな事しない。ヨスタトは俺が彼にやった物を全部置いていった。就職祝いのタイピンも、面白がって贈った妙な柄の靴下も、好きだと言っていた作家の初版本も、ちびた鉛筆に至るまで、例外なく全部。大昔に大枚はたいて手にいれたライターはこのがらくた連中のうちではかなりいい値がついた、半額には届かないが、二束三文でも買い取り拒否でもなかった。それと指輪も。もとから安物だったが、金に変わってくれただけでもありがたい。ヨスタトにとって旅の元手の足しにすらならなかった品物を、俺は残らず処分した。持っていても仕方がないからだ。余剰を切り捨てて身軽にならないと飛べない。骨の中まで空にしないと。
 最後の最後まで中途半端な白のまま放置されていた玄関ドアに鍵をかけると、俺のバカンスは終わりになった。玄関ポーチを降りて振り返れば、静まりかえった家は前よりちっぽけに見えた。何もかも取り去ってしまった空き家、空いたばかりの家ってのは大抵こうだ、思い出だけががらんどうの空間を満たしている。俺は真昼の陽光に切り取られた家の輪郭を追いながら、いくらか感傷的な気分になった。ヨスタトと暮らした数年は楽しいことばかりだった、あんたにとってもそうだといいな。戻らない日々に背を向けて、もう居ない人間に宛てて頭の中で手紙を書く。レク、人生をくれてありがとう。恨み言はなしにするが、ひとつ約束してくれよ、どこへ行こうと構わないんだが、死ぬのだけはやめてくれ。生きているのも悪かない。これは単なるわがままだよ、もしかしたらあんたは俺のわがままに疲れたのかもしれないな……
 支離滅裂な思考を折り畳み、行く手に向かって飛ばす。借りた車のバンパーにぶつかってくしゃくしゃになったそれは、路面の熱に晒され燃えた。想像の紙飛行機は小さな煤汚れにすらならない。窓は開け放してあったから、うまくするとそこに入れられたわけなんだが、そうはしなかった。こいつは燃やしとくべきだ。車に乗り込んでキーを回し、クーラーとラジオをつける。天気予報は快晴を祝い、この車のクラッチは重い。俺はコマーシャルの陽気なフレーズを一緒になって口ずさんだ。ヨスタト、かっこいい別れの言葉は思いつかない、どうしても。さよならの言い方だけは、あんたも教えてくれなかった。