俺はニレ行きの列車に乗った。二等の寝台は向かい側に誰もおらず、いい具合に一人旅が楽しめている。ヨスタトには何も言わなかった。でもあいつは探さないだろうと分かっていた。貰ったものは全部置いてきた、イズカイアに着いて最初の日に買ってくれた麦わら帽子も、贈り物の時計も、俺のために用意してくれた未来も。いい夢を見た。大学は楽しく、親友と他愛もないおしゃべりに興じたり、課題に頭を悩ませたりする日々は悪くなかった。なにより俺が好きだったのは週末に国立公園で鳥を見たあと、家に帰ってヨスタトが出迎えてくれるあの瞬間だった。彼は満ち足りて、安心して見えた。ここには何もかもがあり、誰も俺たちの過去を知らず、ニレの冬も追ってはこられないようだった。やっと逃げられた、そう思った。
自分の思い込みの都合の良さに気がついたのはある夜のことで、ヨスタトは何か新しい職場であった愉快な出来事について話しているところだった。俺はそれを聞きながら、彼のやさしい瞼の曲線と、それに沿って整列した長い睫毛の落とす影と、その下できらきら光る灰色の瞳を眺めていた。客の無茶な注文に見事応えてみせたシェフのドメチルに賛辞を送る彼の様子は楽しげで、幸せそうだった。俺は同じくらい朗らかに相槌を打ってやり、それから返事とともに寄越される彼の視線を受け止めて、灰色の故郷を懐かしがろうとした。そして月並みな表現だが、まさに雷に打たれたような衝撃で、全身を巡る血が逆向きに流れ出したようでもあった。
この国でヨスタトの灰色に故郷を重ねるのは俺だけだ。馴れ馴れしくなついているネルシャも、たまに小さな姉弟を預けにくるリニエラも、しょっちゅうお裾分けをくれるテシュアさんも、博識な友達や陽気な同僚や親切なご近所さんとしての彼しか知らない。この場所で、サンナの自爆テロで婚約者と左足を失った元工作員のヨスタト・バル・ツァーレクを知っているのも、俺だけだ。その俺はというと、ヨスタトの人生から全てを奪った爆発でできた傷を、あろうことか毎日目につくところに飾っていた、ニレ人の顔の上に。それからニルカ語で喋りかけ、ニレに渡っていく鳥の話をし、この南国の気候と正反対の冷えきった故郷の空気を懐かしがるために、彼の瞳を覗きこんでいる。そうだ、ヨスタトの瞳に映っているのは、ニレの寒空の下で震えるイスパ・クク・ジルナクと、その頭の右側を覆う醜い火傷の痕だった。
車窓を流れる景色では徐々に植生が移り変わり、時折ならんで飛ぶ小鳥の羽の色も、南では見られないものになっている。俺はひとつ前の駅で買ったコーヒーの缶のラベルを読んだ。夜をいくつか越えて、ニルカ語圏に入っていた。廊下を通りすぎていく談笑の声にも、ニルカ語が混じる。俺は故郷が近いことに胸をくすぐられるようなほのかな喜びを感じ、同時にもうひとつの故郷──故郷だと思いたかった場所の美しい海を恋しがった。
トンネルに入る。暗闇に塗りつぶされた窓は鏡に変わり、陰気な顔つきのニレ人の姿を映した。そのまなざしにはなるほど同居人に無用な圧をかけていそうな重みがあって、俺はもう二度とヨスタトにこんな視線を向けなくて済むことに安堵した。しかしながら、それと悲しいのとは話が別だ。もう二度とヨスタトに会えないのが悲しかった。ヨスタトに必要とされたかったのに、実際は彼の幸福に一番必要のないものだったことが悲しかった。まだ暗い窓の中、みっともなくべそをかいている自分の向こうにヨスタトの横顔がないのが悲しかった。ヨスタトが好きだった、この世の誰よりも。あいつが笑っているのが好きだった。安心して寝息を立てているのが好きだった。鍋をかき回しながら機嫌よく口ずさむ古くさい歌が好きだった。昼間に手入れした庭木を前に煙草をくゆらせている背中が好きだった。俺の名前を呼ぶときの、甘く優しい響きが好きだった。ただそれら全てが、あの事故に根を張り育ったものであることが、悲しかった。