緊張した面持ちのジルナクに、タイを結んでやっている。鏡の中の自分を親の敵みたいに──この例えは不適切──鋭い目で睨めつけて、まるで今から戦争にでも行くみたいだ。俺はそれがおかしくて笑ったが、こいつにはこういう表情がよく似合う。切れ長の目は獲物に狙いを定めた猛禽、精悍な顔立ちがいっそう引き立つ。兄貴は狙撃手だったというが、仕事の時はさぞ恐ろしい男に見えたろう。
「そら、男前の一丁上がりだ」
「かつらでも用意したほうが良かったかな」
ジルナクは右の側頭部をさすった。毛はないが、代わりにクールな焼け跡がある。昔こいつはよく俺に、俺の身体の醜い痘痕とか不便な足の断端は俺が生き残った証だと説いていたが(少々誤ったやり方ながら、あれは響いた)、これだって同じだ。あの日イスパ・クク・ジルナクの、生き残った勲章。今から頑張ったで賞の授与式だ。それなのにこいつときたら晴れの舞台だってのに不安でガチガチだ。おい、もっと気楽にいけって。俺は弟分の肩に判でも押すように手を置いた。
「かつらなんか必要ない。お前、ここまできてまだ自信が持てないのか?」
俺ははにかむジルナクに満面の笑みで応えてやった。会った時にはこいつのこんな顔は想像もつかなかったが、長生きはしてみるもんだな。こいつは背も高い、タキシードがよく似合う。花嫁もきっと同意見のはずだ。よく二人でこいつの見てくれを褒めた、それでうんざりしながらも照れて嬉しそうなのをからかったもんだ。大学で出来た鳥仲間の話をする時のこいつはすごく楽しそうで、俺は大事に育ててきた雛鳥がふわふわの綿毛を捨てて艶やかな大人の羽に覆われたのを知った。だがこいつはどうも足元のよたついた親鳥を心配し、いつまででも巣に残っていようとしているらしく、巣立ちにはもうひと押しが必要だった。火のないところに煙を立てるのは慣れた仕事だったし、火種がもともとあるなら簡単なことだ。お膳立てはしたものの、走り出してしまえばトロッコは滑るように目的地まで走っていった。それは今日だ。今日これから、ジルナクはネルシャ・リノツクと結婚する。
「ヨスタト、襟が曲がってるぜ」
「そうか? お前のお着替えにかなり手間取らされたからな……」
「じっとしてろって、直してやるよ」
ジルナクは妙に真面目くさった顔つきで、俺の衣装を整えはじめた。本当に襟が曲がっていたかは疑わしい、無駄に手と生地を動かしているだけみたいに思える。俺がそれをからかおうとした瞬間、それまでの朗らかなトーンとはうってかわって、ジルナクは低い声でこう呟いた。
「なあ、本当にいいのか」
「何が」
「俺はさ、あんたの事……」
「あの頃はまだ寒かったからな、お互いちょっと温もりに飢えすぎてただろ。今は違う。それとも……いざ式を前にして怖気づいたのか? 逃げるなら今度は一人で行け。俺は傷心の花嫁をいただくさ」お前下手くそだな、襟は自分でやるからいい。そう付け加えて自分で鏡に向かう。やっぱりどこも崩れちゃいない。「もう忘れろよ」
鏡の中の不機嫌そうな男の開きかけた唇が閉じ、緩やかに弧を描く。ふざけんな、と言いかけてやめたらしい彼は、刺々しい言葉の代わりに手のひらで優しく俺の背中を叩いた。
「そうする」
俺は視線を鏡の中に置いたまま、焦点を白髪頭の花婿からその後ろの時計に移す。反転した世界の長針はかなりの角度に傾いている。もうすぐ時間だ。これから俺はこいつを送り出さなきゃならない。スピーチの文言もばっちりだ、職場の人間全員に添削を頼み、山ほど赤を入れられてやっと仕上げた自信作。俺は立派に育った弟分に向き直る。
「しっかりやれよ」
「おいおい、俺を見くびんなよ……」ジルナクはいつものように口の片端を上げてニヒルに笑ってみせた。それからもう少し表情を柔らかいものに変える。「ヨスタト、ありがとう。あんたは俺の恩人だ。これからだって変わらない、あんたは俺の兄貴で、親父で、親友で……かけがえのない人だよ」
くそ、そういうのはもっと後にとっとけよ。俺は滲んできた涙をごまかして咳払いをし、新郎を急かして控え室を出た。廊下を満たす光が眩しい。今日は快晴で、雨が降る不安もなさそうだった。陽気で愉快な南の国は、雪とも木枯らしとも、無縁だった。