夜は適当に塩をふっただけのお湯で鶏を煮て、向かいの婆さんに貰った果物をいくつか剥いた。栄養も味もろくに考えちゃいないこんな食事はヨスタトがいるときはあまり作らなかったが、最近ではかなりの頻度になっている。それというのもお利口なジルナクがひたむきに勉学に励んでいるからで、炎天下のイズカイアのフィールドで五時間駆け回った後では何をするのも億劫だった。一人暮らしの困ったところは全部自分でやらなきゃならないってとこだ。こんな時に頼れる同居人が居たら、肉体的にも精神的にもかなり楽だった。ヨスタトがいたら……と考えるくらいには疲労で弱気になりかけている。ビスケットの妖精は俺の願いを叶えちゃくれなかったが、当然だ。いくら偉大な精霊とて、その超自然的な霊力が国外まで及ぶとは思えない。特にニレみたいな陰気くさい北国には。多分ヨスタトはニレに帰ったんだろうと思う、少なくともニルカ語圏に。理由は思いつかないが、あいつはどうもこの馴れ馴れしすぎる国の太陽があまり好きではなかったような気がするし、こんなコテージふうの一軒家よりどちらかというと寒寒としたアパルトマンの北向きの部屋なんかがしっくりくるタイプだった。それをいうとこのいつまでも生白いケロイドつきのニレ人だって同じようなものなんだが、いつも傍らで笑っていてくれるあの小麦色の美少女が、目に痛いほど白い浜辺と透明な海とでできたリゾートに俺をなじませてくれていた。このままヨスタトなしで生きていけるだろう。つるりとした丸い果肉を口に放り込む。これだって、この甘酸っぱいお恵みだって、彼以外の人間が俺を気遣ってくれている証だ。人との繋がり……フォークで無理やり骨からこそげた肉の線維が、ため息をつくようにふっくらと広がった。自然との繋がりだってある。ジルナクは一人でも腹を満たせるってわけだ……
やっつけ仕事の食事を終えてしまうと、やることがなくなった。皿はすぐに洗ってしまったし、洗濯は明日に回してある。もちろんこんな風にソファの座面に寝転がって天井の雨漏りあとを探しているくらいなら予定を繰り上げても罰はあたらないんだが、ほんの少しでも能動的に動こうとすれば、日焼けで痛む皮膚が破れて疲れきった中身がこぼれ出しそうだった。俺はへとへとなんだ。照明がやたらと眩しく感じる。家の明かりは暖色のほうがいい、なんて言ったのはどちらだったろう、降り注ぐ色つきの光は痛め付けられた肌の隙間からじわじわと染み込んで、やがて俺のこともやさしげな淡い山吹色に変えてしまおうと画策しているようだった。相変わらずの南国の夜、カーテンの隙間には手のひらほどの蛾の腹が見え、その後ろからはそいつを讃えるか、あるいは非難する別の虫の立てる音がキロキロ、リリリとひっきりなしに響いてきている。ここからじゃよく見えないが、本当は真っ白なカーテン(今はきなり色に見える)を開け放てば間違いなくご機嫌ななめに割れた月が、星明かりのやかましい夜空にむっつり張り付いているはずだ。ヨスタトがいなくなってからちょうど一年と、八ヶ月……いや、もっとか? 俺は笑おうとして咳き込んだ。くそったれ、こんな夜にあいつがいたら、俺は疲れているのを口実にしてしこたま酒を流し入れ、酔っぱらってあいつの首っ玉にかじりつき、自分は覚えちゃいないのをいいことに下らない台詞を山ほど浴びせかけたことだろう。ヨスタト、俺は人生があともう二つあったらいいと思うんだよ、一つ目では鳥になってあんたの瞳の中を飛ぶんだ、二つ目では魚になってあんたの瞳を泳ぎたいな。そしたらヨスタトはこう返す、それじゃ「人生」とは言わないだろ……
馬鹿なことを考えていると、玄関のほうから──間違えようもなく玄関だ──ノックの音が聞こえてきた。木と骨、どちらも生き物の素材がぶつかってできる、角のとれた柔らかい音、耳に心地よく、ただこんなにぐったりと妄想に逃げている夜にはあまり嬉しくない来客の音だった。俺はスイッチを切り替えるように目頭を強く押さえ、短く息を吐いてから反動をつけて起き上がった。あまり時間をかけすぎると相手の根気も底をつく。俺は「今行く」とだけ呼びかけてから、水から上がったばかりの中年男よろしくどたどたと不器用な足取りで、こんな時間にアポなしで押しかけてきた礼儀知らずの顔を拝みに行った。
ドアを開けた俺はまず、自分の正気を疑った。月がせっせと冷した夜風がそよいだ瞬間に、今度は居眠りを疑った。この風は怪しい、なにせ気分良く涼しすぎる……云々。余程か間抜けた面でいたんだろう、目の前の相手は神妙だった表情を崩して、呆れたように眉尻を下げ、口の端をわずかに持ち上げた。その顔があんまり懐かしいので、俺は一転、この世の現実も非現実も放り出して、そこにあるものを信じたくなった。
「ヨスタト」あまり力の入らない唇のあいだから、久々の再会で贈るにはあんまりな挨拶が転げ落ちる。「どうして」
「どうして?」ヨスタトは、おうむ返しにこう言って、言ってしまってからひどく混乱したような曖昧な目つきになった。この問いを随分もて余しているんだろう。「どうして、か。それは俺にもよく分からない……」
どうでもいい、と遮りたくなったがうまく言葉が出なかった。桟橋に放った魚みたいに口をぱくぱくさせるより、人間らしく自由な二本の腕を使った方がいい。俺はヨスタトの身体を抱き締めた。ごわごわした上着には機械油と煙草の匂いが染み付いている。ここでのんびりしていた頃より少し逞しい気がするのは、彼が知らない場所でやつれたりしちゃいなかったことに安心しすぎたせいかもしれない。回した腕に力を込めると、途方に暮れて宙をさ迷っていたらしいヨスタトの両手が、俺の服の上を触れるか触れないかの距離で滑り、それから吹っ切れたように押し付けられた。ヨスタトの服のざらついた生地と擦れた場所は首といい腕といいひりひり痛んだが、それが不思議と心地よく感じる。どこかから沸き上がってきた幸福が胸につかえて苦しかった。手のひらから伝わってくるかすかな震えは、彼も同じ気持ちなんだろうと錯覚するのに十分な刺激だった。
「何で戻ってきたりした。やっとあんたが居ない暮らしに慣れてきたところなんだぜ……」俺ははっきりしない頭で恨み言を囁いた。前よりも煙草の匂いが濃いのは嫌煙家に気をつかわずに過ごした時間の長さの言い替えで、俺たちはお互いに、互いの居ない暮らしに慣れてきていたところなのだった。
「分からない……」ヨスタトは珍しく、もう一度不安げな台詞を繰り返した。彼にしては本当に珍しく、声に湿っぽさが混じっていた。「自分で自分が分からなくなってる……」
俺は黙って彼と抱き合ったまま、ふと地面に視線を落とした。家の中から漏れてくる光の間、タイルと板目の上に伸びた俺とヨスタトの影は、境目もなくひとつだった。多分それが答えなんだろう。