思い出(あるいはごくありふれた帰宅)

 ヨスタト・ツァーレクは数年の放浪の後、ついに古巣が懐かしくなった。その巣というのは何もかも失った冬枯れの枝ではなく、異形の手のひらのような葉をいくつも繁らせた南国の我が家だった。列車は時折足踏みしながらもやがて彼を目当ての土地まで運んでいき、浮かれた暑気と潮騒のただ中へ放り出した。人混みはバカンスの夢に酔い、ヨスタトは風に混じる飲食物や日焼け止め、熱い砂や逆巻き弾ける波の香りに郷愁じみた切なさを感じた。久々の温湿度に左足の断端は不愉快な汗を生じたが、この不愉快も懐かしく、蒸し暑さに慣れた日々を思い起こさせた。
 あの頃暮らしていた家は既に人手に渡り、筋向かいも空き家になっていた。住んでいた老婆が亡くなったのだろう。玄関ポーチに倒れたままの椅子は、いつかそこに座っていた人間のまぼろしとともに剥げたペンキのかけらを散らしていた。ヨスタトはしばらくの間、我が家だった建物を走る軽快な足音と幼い笑い声を聞き、窓辺に見え隠れする若い母親とシリアルの箱とを見比べていた。そのうち飽きてしまったのか、踵を返してその場から歩き去った。彼は少し離れた場所に待たせてあったタクシーに乗り込んで、淀みない動作でドアを閉めた。運転手は待ち時間にも金が貰えるので、もう少し暇していたかったと言わんばかりの緩慢さで煙草の火を揉み消し、客に告げられた住所へ向かった。おんぼろ車は不十分なメンテナンスと奴隷労働に文句を言いつつも、すべき仕事はつつがなく終えた。ヨスタトは開け放しの窓枠を流れていく景色の中から、無益な間違い探しをした。
 数年ぶりのネルシャ・リノツクには、間違い探しの中でもひときわ大きな丸がついた。豪邸から出てきたおてんば娘は長かった髪を肩のあたりで切ってしまって、飾り気のない薄手のワンピースが以前より心持ちふっくらとした身体の線を透かしている。子供っぽさは無邪気な瞳のかがやきを残して去り、ヨスタトの姿を認め驚きを示した表情の芯には確かな落ち着きが備わっていた。はじめの衝撃が過ぎてしまうと、彼女は旧友へ弾けるような笑みを贈った。歓迎の言葉はとめどなく溢れ、自分の近況と相手へのちょっとした心配(前より痩せた、隈がある、等)とがないまぜになってヨスタトの耳に注がれた。彼は旅のあらすじをかいつまんで述べ、若い研究者が語った直近の成果に賛辞を捧げ、それから話と話の隙間を狙い質問をひとつ投げた。イズカイアにいた頃の彼の同居人について聞かれたネルシャは、突然思い悩むような顔つきになった。そしてサンダルの爪先でタイルの段差をなぞりながら、件の人物の現住所と、この数年で彼に生活上の大きな変化があったことを伝えた。
 ヨスタトがネルシャに教えられた場所に赴くと、中天を越した陽光が、住宅街から影を残らず追い出そうとしていた。彼は帽子をかぶって来れば良かったと思いながら、襟足から流れる汗の雫がどこまで下っていくのかに気を取られつつ目的の家を探した。どの家も前庭の草はぞんざいに刈り込まれ、思い思いの色に塗られた宅地の通りはおおらかな気配に満ちている。ヨスタトはポストの数を順番に数え、ついにその上に小鳥のオブジェを発見した。比較的庭の手入れが行き届いて見える一軒が、この訪問の目的地だった。
 押したドアベルは壊れていた。木目の浮いた白い扉を何回か叩くと、中から返事らしき声が聞こえた。特に急ぐ様子もない物音が近づき、金具の音とともに扉が開いた。
「はい」
 ヨスタトの額の高さからシンプルな一言が降った。応対に現れた背の高い男は見慣れぬ来客を失礼も気にせぬ様子で眺め回した。義足に目を留めたのは一秒の半分にも満たなかったが、ヨスタトには彼が自分の特徴を知っていることがはっきりと分かった。
「イスパ・ジルナクに用が」
「ジル」男は扉に手をかけたまま振り返り、家の奥に向かって声を張った。「お前にお客さんだ」
 誰だよこんな休みに、という暢気な声が響いてきた。住人の男はそのまま手を離し、ヨスタトの方に顔を戻さず引っ込んだ。 だらだらと閉じた扉は閉まりきってからわずかな時間をおいて再び開かれ、ヨスタトの目の前に別の男が現れた。こちらはよく知り抜いた顔で、記憶の中のそれと比べて殆ど"間違い"もないようだった。色素の乏しい肌と髪、その右側の一画に陣取る大きな火傷の痕、鋭いカーブを描く瞼の間の透けるような薄水色とぼやけた白。男は来訪者を一目見て唖然とし、瞬きも忘れてその顔を見つめた。薄い唇が、音にならない言葉を口ずさもうとした。ヨスタトは相手が口をきくのを待った。男は少しばかり頑張ってから顔をしかめてゆっくりと息を吐くと、そのまま数度深呼吸した。この手当ては効を奏して、次の一言はまともに発音された。
「うちに入れよ、立ち話もなんだろ。ユーリク!お茶を頼む」
 ヨスタトは家へ上がった。日光が遮られているというだけで涼しく感じられる。室内はよく整頓され、マットレスや家具の模様など、ところどころ鳥の意匠で彩られていた。促されるままソファに座ると、先程ユーリクと呼ばれたのっぽの男がやってきてグラスを二つ置いた。彼は同居人に二言三言囁きかけてからキッチンへ戻った。火傷のある男は短い返事をし、ヨスタトと向かい合う位置に落ち着いた。寛いだ様子そのままの調子で話しかける。
「ヨスタト、久しぶりだな。どういう風の吹き回しだ? いつこっちに来た?」
「今朝。ここに居ることはネルシャに聞いた」ヨスタトは一つ目の質問には答えなかった。視界の隅にユーリクの背中が見え隠れしていた。「いい家だな」
「ああ、もちろん。引っ越したのは、えー……三年くらい前か?うん。三年くらい前だ。そうそう、俺が院に入って一年かそこらだったもんな」
「そうか。ジルナク、お前、卒業したんだな」
 火傷のある男、ジルナクは嬉しそうにはにかんだ。
「お陰さまで。今は国立公園で働いてる。仕事は色々さ、ただ鳥を見てればいいって訳じゃない……そこが楽しいんだけどな」
 肩をすくめて笑うジルナクの後ろを、ユーリクが通りすぎた。バターを切らした、という短い言い置きとともにジルナクの肩に触れていった。ジルナクは片手を上げただけで済ませたが、この動作には親密さがありありと見てとれた。それともう少し物質的な親密さも。
「結婚したのか。いい指輪だ、シンプルだが安物じゃないだろ」
「すごいな、あんたは元敏腕工作員なだけじゃなく、凄腕鑑定士でもあったらしい……そうさ、リクはああ見えて結構ロマンチストなんだ。それに優しい。さっきだって、別に急ぎでもないバターなんか買いに行ったりしてさ」
 ひとしきり愉快げにしたジルナクは、ソファのひじ掛けにもたれて頬杖をついた。ユーリクについて話す彼はお気に入りのおもちゃか可愛がっている犬の話をするようで、いかにも幸せそうだった。ヨスタトの頬も自然と緩み、グラスの氷は溶けて崩れる拍子に涼やかな音を立てて回った。
「ヨスタト、なんでまたイズカイアくんだりまで。俺の顔を拝みに来たって訳でもないだろ」
 蒸し返された質問の答えを聞く人間は、今はジルナクのほかに居なかった。二人を隔てる空間に、互いを失ってからの時間が音もなく流れた。ジルナクは手遊びのうちに三度指輪を動かし、ヨスタトはその金属光沢へ二度ほど視線を送った。
「お前に会いたくなった」
 ヨスタトが呟くと、また長い時が流れた。ジルナクの指輪は関節の間を行き来し、うっすらと赤らむ轍の上に落ち着いた。
「俺もだよ、ヨスタト。毎日会いたかった。片時もあんたを忘れたことはなかったし、あんたを愛さなかった日もない。ドアを開けてあんたが居るのを見たとき、現実かどうか信じられないくらい嬉しかった……」
 ジルナクは息苦しさに言葉を詰まらせ、ゆっくりと息をついた。視線の先で、グラスの表面の雫が周りの結露を巻き込んで落ちた。とたんに呼吸が楽になる。彼は笑顔を作り、言った。
「それを飲み終わったら出ていってくれ。このままあんたといると、ユーリクよりあんたが大事になりそうなんだ。ユーリクはあんたに似てる。あいつをまがい物にしたくないんだよ」
 ヨスタトは指輪の銀色の中になくした日々を探した。白いクロスと食器を挟んだ婚約者の微笑みに目が眩み、彼はせわしく瞬きを繰り返した。懐かしい彼女のまぼろしがかき失せる。入れ替わりに現れたジルナクから気遣いの声が見当違いの優しさで投げかけられ、ヨスタトは熱中症や暑さに付随する体調不良を笑って否定した。付け加えるように、お前に迷惑をかけるつもりで来たんじゃない、とも言った。
 ジルナクは残りの時間いっぱい、鳥の話をした。アルバイト先でもあった国立公園は彼にとって良い職場で、渡り鳥も常在する鳥も豊かな自然の中で守られていた。ジルナクは壁にかかった写真を指差し、ヨスタトがそこに写るどの鳥の名も知っていることを喜んだ。話すうちに客人のグラスは空になった。最後の一滴を飲み下した男は短い礼とともに席を立ち、家主に見送られてまだ高い太陽の下へ出ていった。後ろ手に閉めた扉に寄りかかったジルナクは、ヨスタトの背中が日陰から出るのをじっと眺めてから、思い立ったように口を開いた。
「前に一度だけ俺のここにキスしてくれたろ」
 こめかみを指先で叩く彼の姿を、振り向いたヨスタトの視線が追った。人生で最高の思い出だよ、と続いた台詞はもう終わってしまった過去に属していて、彼らに昔の家の軋む床板の音や新しくしたばかりのベッドカバーの匂いを思い出させた。ジルナクは日向に出ていってその暮らしをもう一度現在の時制に戻したいような欲求を覚え、愛している男の瞳から目をそらした。靴と服の隙間から見える義足は昔よりいい素材になったようで、沸いた衝動は不思議と力を失って大人しくなった。彼の表情が和らぐのに呼応してヨスタトの唇の端には曖昧な笑みが宿り、無意味な回想はそれきりになった。二人はさよならを交わして別れた。

 スヌート・クク・ジルナクは帰宅した夫にキスをせがみ、彼を困惑させた。律儀に買ってこられたバターを冷蔵庫に収めてしまうと、ユーリクは観念したように夫の望みを叶えてやった。ジルナクは目を瞑らずに、相手の瞼の後ろにある色彩に思いを馳せた。ヨスタトの瞳がニレの厳しい冬空ならば、ユーリクの瞳は萌え出たばかりの若芽の色だった。唇が離れるのと同時にジルナクは目を閉じ、暗闇の中で二つの色をよく見比べた。それから一番のお気に入りをそっと心の奥にしまい、静かに蓋をした。