楽しい夜を

「あんた、幸せじゃないんだろ。見てりゃ分かるよ……悪かったな。俺はあんたの死ぬ権利を奪ったよ。ただ、そうならどうして俺を放っといてくれなかったんだ。あんたは親切だが、同じくらい失礼な男だよ。楽しむつもりのない旅行に参加して、つまらなさそうにしてるんだからな」
 暗がりの中、俺は壁際まで追い詰めたヨスタトの頬を軽く張った。衝撃は些細なものだったが、彼はかかる力をわずかに頭を転がして逃がし、反射的に閉じた瞼もそのままにしていた。軽口ばかり叩く唇も、緩く結ばれてそれきりだった。たった今健やかな眠りに落ちました、とでも言わんばかりの安らいだ表情に、幼稚な俺の怒りは激しく尾を振り上げて地面を叩く。叩いたのは地面でなく概念的な俺の心の脆い部分で、脆弱なハートの持ち主はいちいち奥歯を食いしばってこれに耐えた。俺は几帳面に着込まれたヨスタトのシャツに手をかける。一番上からわざとらしく時間をかけて、拙い手つきでボタンをはずしていくと、無関心を装っていながらも生真面目な保護者気取りの手が伸びてきて腕に触れた。やめろってのか? 俺はそれを乱暴に掴み、爪を食い込ませる行儀の悪い自分の手もろとも、二人してああでもないこうでもないと言いながら選んだ壁紙の上に叩きつけた。俺の指が痛むくらいだからあっちの手首もそれなりに被害を被っているだろうが、ヨスタトの目は開かなかった。ただ、形のいい唇の間から、スプーン一杯ぶんの吐息が漏れただけだ。もう一方の腕が邪魔立てしたら腕が足りなくなって困るが、幸いそうはならなかった。幸いというのは向こうにとってだ、人類が持ち合わせた一番便利な道具が使えないなら、一世代前ので間に合わせるしかないだろう。俺はこう見えて結構舌が器用だった。そいつは後のお楽しみにとっておくとして、早いとこ仕事にかからないと、こいつもいい加減うんざりしていそうだ。さっき大捕物を繰り広げたほうの腕を諦めて、空いた方に続きをさせる。露になっていく肌の一部には、スコールが通りすぎた後の砂地にそっくりの凹凸が広がっている。ぞくぞくする、こいつは決して自分の醜さを愛しちゃいないが、俺にとってこれは、まるまる太ったかたつむりが虫にやられて捕食者を誘う縞模様そのものだった。シャツの前をすっかり開けてしまうと、俺は大人しくなった腕を解放してやる代わりに、距離を詰めて彼を抱いた。全身でヨスタトの温度を感じる。ほんの少しだけ熱いのは悲しい錯覚で、実際熱いのは俺のほう、彼からすれば熱いというより暑いという、それだけの話だった。顔が見えなくなったから、何を考えているのかの判断材料もない。耳元から短い髪に鼻を寄せると、いつも気をつかって外で吸っている煙草の匂いがした。うちに喫煙者はいなかった、兄貴は小さい頃気管支が弱く、おかげで俺が生まれた頃には灰皿のひとつすら残されてはいなかった。だからはじめはこの匂いに辟易させられたが、「煙草の臭い」が「ヨスタトの匂い」に変わってからはそうでもなくなった。俺はこの煙たい刺激に欲情した。
 温厚な兄貴分は同居人の悪ふざけに寛容だった。だがせいぜいシャツまでだ、俺は次の段階に進むにあたって、かなり強い抵抗を覚悟しなきゃならない。曲がりなりにも結構鍛えて引き締まったヨスタトの肉体が、どんな激しさで拒絶し、相手を排除しにかかるか分からなかった。俺たちは殴り合いの喧嘩をしたことがない。
「ヨスタト、あんたは綺麗だ。散々いい思いもしてきたろ。少しくらいは分けてくれよ、迷惑料さ……」
 下着の中に滑り込む俺の冷たい指先が単純に不快だったんだろう、ヨスタトの下腹の肌は凍りつき、次いでその向こうの筋肉がちょっとした運動に備えて硬くなった。俺の両腕は色事どころではなく、暴れる男を押さえつけるのに忙しくなった。お互いにどこ構わず掴み、押し合い、詰まった息の音だけが、ぬるい夜気を揺らす虫の音に紛れこんだ。ヨスタトは本気じゃなかった。あるいは、つまらないなりに享受していた平和に感覚がなまったのか、壁際から逃れることもできずにいる。どちらにせよこいつは弟もどきを傷つけまいとしているらしいが、こっちは違う。いい加減力比べにうんざりした俺は、ヨスタトの顔を力任せに殴った。その瞬間、指の関節が硬い骨や歯にぶつかるのとは違う痛みと苦しさに襲われる。腐っても元プロだ、ヨスタトは敵の腹へ反射的に膝を入れていた。あとずさりながら身体を曲げて咳き込む俺を見下ろしながら、彼は床が汚れるのも構わず唾を吐いた。血混じりのそれは、さっきの一撃でこのタフガイも多少は損害を被ったことを示していた。俺が口の端を持ち上げ、まっすぐヨスタトの顔を見据えると、醒めた灰色の瞳と視線がかち合う。身体の芯に震えが走った、やっぱりこいつの色は最高で、朗らかな性格も相まって甘くなりがちな容貌を、薄く凍結した路面の温度で引き締めている。俺はまた挑みかかった。拳がいなされ、悪あがきの足払いから床の上での見苦しい掴み合いになる。俺たちは相手を追い詰め、逃れようとし、何度も天地を入れ替えながら傷つけあった。脇腹に食らった一発のお返しに頭突きをお見舞いしてやると、床に叩きつけられて俺のほうが声を上げることになる。乗りかかるヨスタトの重さをそらしそこね、背骨が激しく軋んだ。俺はまだ自由なほうの手で苦し紛れに相手のシャツを掴んで引っ張り、バランスを崩した彼の傷だらけの唇に自分のそれを重ねた。今度こそ無慈悲な一撃で俺の歯は全部折られるかと思ったが、予想に反してヨスタトは大人しく、上がった息の合間に俺の口づけを受け入れていた。血の味がする。俺の手は彼の脇腹を撫ぜ、背を滑り、うなじに触れ、髪をかき分け汗ばんだ皮膚を探った。身体中の痛みは忘れられなかったが、それがむしろ蕩けだしそうな意識をはっきりさせていて、悪かなかった。あっちも同じだろう。浅い呼吸が荒くなり、貪るようなキスに変わる。俺は火傷の上にヨスタトの指を感じた。こいつの愛撫は雑だった、まるで鴨を咥えてきた猟犬を褒めるような手つきだが、この犬は雑に扱われて喜んでいるから構わない。朝までこうしているつもりかと思ったが、濡れた音と共に、名残惜しげに唇が離れる。俺はやっと落ち着いて彼の顔を眺めることができた。
 イズカイアの夜は明るい。遠い世界の真昼がもたらす豊かな陰影の中で、痣だらけのヨスタトはたまらなく綺麗に見えた。眩暈がするのはひとしきり暴れたからもあるだろうが、珍しく乱れた前髪が新鮮で惚れ惚れするってのは間違いない。こいつはやっぱり俺が独り占めにするには勿体ない程の男前だ。でも、他人に渡すのはごめんだな。片方は腫れた瞼に隠され気味ではあったものの、瞳に映る故郷の街並みは、無彩色ながら鮮やかだった。どうやら夏が来たらしかった。