ときには昔の話を

 私にはふたりの友達がいた。ひとりは最高に気の合う鳥仲間で、はじめからそうと知って話したわけではないのに、この国に居ない鳥の話で盛り上がれた初めての相手だった。もうひとりは彼の歳上の同居人で、多分興味もないだろう私の長話を、真剣らしく最後まで聞いていてくれた初めての相手だった。特に前者の彼は大学で出会ってすぐに、私の一番の親友になった。彼にはニレにあるヒイロアジサシの営巣地をすべて知っているという以外にも、人とは変わった点があった。それは彼の顔の右側からこめかみにかけて広がる大きな火傷の痕で、ただでさえ目立つ彼の見た目を、一層派手に飾り立てていた。初めて見た時、私だって驚かなかった訳じゃない。でも、それだけで遠ざけてしまうには、あまりにももったいなさそうだった。私の直感はよく当たる。
 この素敵な同級生は名前をジルナクといって、ニレ語でハヤブサを意味する単語がほとんどそのまま使われていた。確かにどことなく猛禽らしい顔立ちで、私はよく彼の名前を茶化したものだった。話せば気さくで優しいのに、心の底からは誰にもなつきはしない鳥。私のそんなイメージは、彼の家に行ったとき容易に覆った。同居人だという人を紹介したときの、ジルの少し誇らしげでいとおしげで、うっすらと戸惑ったようなまなざしを、私ははっきり覚えている。あの眩しく日の照りつけていた午後三時、そこだけ木目がむき出しになったドアを開けた先、広くはないけれど感じのいい家具と色あいに整えられた部屋の中、ほんの少しの煙草の香りをともなって現れた親友の同居人。ジルは、ヨスタト、と呼びかけた。雛が親を求める声にも、若い雄がつがいを呼ぶ声にも似ていた。それに応えるうっとりするような甘い微笑み!彼があともう少し肉付きがよかったら、私とジルとはちょっと難しい関係になっていたかもしれない。「一緒に暮らしている、兄貴みたいな」ヨスタト・バル・ツァーレクは、本当にハンサムな人だった。軽い自己紹介にかこつけて長々と喋ったアジサシの話も、あの人は辛抱強く聞いてくれていた。私の悪い癖はいつでも人を辟易させていたけれど、レクはきちんと耳を傾け、折に触れて質問までしてくれた。初対面の小娘の、きっと興味もない話をあれほど真剣に聞いてくれる人は決して多くない。後でそれを率直に伝えると、ジルは少しはにかんでこう呟いた、そうだよ、あいつはそういうやつなんだ……
 私が親友の同居人へ向ける熱烈な愛情を指摘してから、ジルは何やら楽しそうだった。恋に浮かれるフウチョウのように、相手の気を引こうと躍起になっていた。そんな彼の姿と、恐らくは察していながらもうまくあしらっているレクの対比はますますフウチョウじみていて、見ている私も楽しかった。三人でバーに行き、遅くまで飲むこともあった。常識ある大人のレクは子供たちの、特に私の不健康な夜更かしをたしなめたけれど、うるさくは言わなかった。私たちはそういう夜、本当に色々な話をした。

 ジルには言えていなかったことがある。それは彼の愛する同居人に関することで、私はうまく伝える言葉をついに見つけられなかった。一見すると朗らかで冗談好きで幸せそうなレクの瞳の奥はいつだって冷めていて、生きることにあまり興味がなさそうだった。小さい頃私が一番の仲良しにしていたカラスを彷彿とさせた、毎日窓べりに遊びに来てくれたのに、ある日の夕方、いつもと違う方へ飛んでいってそれきりになった。私への親愛のしぐさはそれまでとまったく同じだったのに、あの子の中でなにかが変わってしまっていたのに、私は薄々気が付いていた。
 あの夜、ジルはちょっとした用で外に出ていて(たしか買い出しのようなこと)、部屋には私とレクのふたりきりだった。リビングの大きな窓には几帳面に手入れされた庭木と夜になりかけの空が閉じ込められていて、去り行くはずの夕日は西のはずれでだらだら足踏みし、またたきはじめの星は中途半端な紫に戸惑うように、控えめな光を散らしていた。私はソファでくつろぎながら、レクはダイニングテーブルを拭きながら、ジルの帰りを待っていた。心地よい沈黙に浸っていた私は、協議を重ね買ったのだというそのテーブルに手をつくこの家の住人の背中を眺めているうち、ひとつ確認してみたくなった。
「レク、ジルのこと置いていっちゃうんだ」
 彼は動かしていた手を止めて、ゆっくりと振り返った。はじめは冗談で誤魔化してしまおうとする気配があったけれど、私が平然としているのを見てやめにしたようだった。灰色の視線が床に落ちた。
「ここには長く居すぎた」
「連れてってあげないの?」
「折角入った大学だ、辞めさせるわけにはいかない」
「レクは暑いところ、あんまり好きじゃない?」
「嫌いじゃないが好きでもない」
「ふーん。残念」
 なんていう短いやりとりの最中に、ジルが家に帰って来た。会話の残り香を鋭く嗅ぎつけて、何話してたんだ?と尋ねた。私は冗談めかして秘密ー、と笑い、レクは肩をすくめて微笑んで、それで魚は買ってこれたか、と言った。
 フライをご馳走になってから三日とたたずに、レクは町から居なくなった。レク抜きで日常が進んでいき、私たちは普段と同じように学内のベンチに並んで昼食をとった。いつかこうなるんじゃないかとは思ってたよ、とひとりごとの調子でこぼした一言は、思いの外軽やかで取り乱したところもなかった。ジルは大好きなヨスタトの不在をあっさりと受け入れていた。植木の影から日だまりに爪先をひたして、あいつには何も恩返しできなかった、と呟いて、作りすぎたというサンドイッチを分けてくれた。
 ひと月が過ぎ、ふた月が過ぎても彼はいつも通りだった。住みよく整えた家で暮らし、私と講義に出て、それから空いた時間には鳥を見に行った、ときにはふたり、ときには別々に。夜は飲みに出て、昼間撮った写真を見せあっては互いを褒め称え、けなし、笑いあった。レクの話はたまに出て、今どうしてるんだろうな、とか今度は山に居るかもね、なんて空想で彼を冒険家にして遊んだ。私の親友は楽しそうで、平気そうだった。
 半年が経ったある日、ジルナクは崖から落ちて亡くなった。不幸な事故に知り合いみんなで涙を流したけれど、私は事故だとは思わなかった。慣れた国立公園で彼の知らない崖なんてひとつもなかったし、崖の上にはカメラが、見えるところに置き去りにされていたという話だった。一通りの捜査が終わると、私は身寄りのない彼の形見として、そのカメラを貰うことにした。そして電源を入れて最初に画面に現れたものを見て、自分の考えが正しかったのを知った。
 小さな液晶の中でヨスタトが笑っていた。少しとがめるような、困ったような笑み。よせよ、と言わんばかりに上げかけられた手。背景にぼやけてうつりこむサイドボードと塗り替えたばかりの壁、そこにかかったカモメの写真、きっと傷だらけのはずの床板、強い陽を透かす薄緑色のカーテン。この写真は完璧だった。日付は被写体が背景を去る少し前。
 私は一年早く大学を卒業し、いまは博士号のためにあくせくしている。結婚もした。鳥仲間ではないけれど、私にも私の好きなことにも敬意を払える素敵な人。充実した日々を送る中で、私は時折、昔行きつけにしていたバーを訪れることがある。淡い夢のようだったあの頃、私にはふたりの友達がいた。ひとりが話の途中でおどけてみせると、もうひとりはこの上なく幸せそうに笑い、グラスの氷が涼しげに音をたてた。三人で他愛もないおしゃべりに興じたカウンターの一角、もうどこにもいないふたりのことが、ひどく懐かしく思い出される。