俺はまた眠れなかった。モーテル暮らしが肌に合わないのか(実際ここのシーツはチクチクしていた)、まんじりともできずに嫌なことばかり思い出したあとの朝日は泥を溶かしたように色味が悪く、また乾いたあともざらざらと視界にこびりついた。スプリングのいかれたマットレスに横たえていた身体があちこち痛む。起きた後は習慣通り汗を流そうとバスルームへ向かったが、誰が使ったかも分からないボディソープの手触りに吐き気を催し、水浴びだけで済ませた。この前ネルとコユキチョウの身繕いのビデオを見た。地味な夏用の焦げ茶色に装う小鳥は小刻みに身を震わせて、勢いよく雫を撒き散らしていた。俺もあれくらいかわいかったら言い訳が立った、ヨスタト、どうやらあんたの弟分はみんなが放っとかない位かわいいらしいぜ……
くだらない物思いが彼への懐かしさを呼び起こさないよう、俺は受けた苦痛を反芻した。頬に食い込む砂利だとか、ぞんざいに鷲掴まれた髪だとか、無理な姿勢にされて不平だらけの関節だとか、あとは慣れない他人の肉体を受け入れる時の無理だとか、そういうものが与えた痛みを一つずつ拾い上げ、埃をぬぐい、映った自分の顔を眺める。勿論楽しそうなはずもない、これは誰しもがあまり味わいたくない類いの人生経験だった。もっとも、嬉しくない経験なら他にも山ほどこなしてきているんだが。その中でも最悪のひとつは二回目を味わわされることになっていた。だから家に帰りたくないのかもしれない、空っぽの家で住人の不在に押し潰されそうになるとか、怪我の治った兄貴が帰ってくる夢から目覚めておはようを言いにその姿を探したりとか、そういうことを。ヨスタトのナイトテーブルの引き出しにあったニレ行きの航空券は十六の時に見た悪夢の再演で、俺はまた置いていかれるのだと知って問いただすこともできなかった。
一晩中繰り返し歩いた道をもう一度辿り終えてしまうと、わからず屋のジルナクはたまらずに胸のあたりをかきむしり、シャツの布地を握りしめた。何度目かも分からない暴挙に、服みそのその部分は皺だらけになってしまった……かもしれないな、とくだらない考えがよぎり、投げやりな気分が強まる。チケットの日付は三日前だった。今ごろは里帰りで涼しい気候を満喫していることだろう。
少し日が高くなった頃合い、みっともなくなった装備をダッフルバッグに突っ込んで新しいのに替えてから、俺は大学へ行くことにした。昨日はバス停に着く前に具合の悪くなっちゃったジルナクちゃんも、今日は元気なまま進んだ。通りに降り注ぐ太陽の光はモーテルのとは違い透明で、南国イズカイアらしい快活さに満ち満ちていた。殆ど裸同然の寝間着で新聞を取りに出る住人の前を、スポーツウェアに身を固めたポニーテールが跳ねていく。そのすぐ前には犬が居て、スクールバッグを背負った子供のピカピカの自転車が駆け抜けるのを追いかけていきたそうにする。道の反対側では俺と同年代の観光客らしいカップルがガイドブックとにらみ合い、塗りかけのまま放置された木塀の前を通り過ぎていく。この家の庭木の枝では、群れ集うスズメの影がひっきりなしに動き回っていた。うきうきするような素敵な朝だ。こんな朝だからか目当てのバスはのんびりと遅れ、俺は少し日焼けをした。
学校に出ると、タカより目ざといネルシャ・リノツクが講堂の端に俺を見つけ、いそいそと席を移ってきた。スズメのことを思い出し笑う俺を楽しげに小突くと、昨日の講義のメモ書きを差し出した。持つべきものは友とか言うが、ネルシャはまず間違いなく一級品のお宝だった。俺は丁寧に礼を言い、今度の観察会の旅費は全額負担すると約束した。イズカイア人らしい黒い瞳をいたずらっぽく輝かせた親友は国外の湿地の名を口にし、家出人を続ける俺についこの間あったことを綺麗さっぱり忘れさせた。
四時までは。ショッピングモールで新しい帽子を探す彼女の傍らで、俺は突然魔法が切れるのを感じた。ともすると、さっきすれ違った奴があの男にほんの少し似ていたかもしれないが、理由ははっきりしなかった。ただどうしようもなく息苦しくなり、自分より華奢な女の子に支えられながら辛うじて辿り着いたベンチの上で、一歩も動けなくなってしまった。情けない姿を親友に見せることになったのが辛くて仕方ない。俺は冷や汗を拭うこともせずうずくまって震えていた。ネルの手のひらが肩の上から背中までいたわって、ゆっくり何度も往復する。俺は目を落としたまま、荒くなる息をどうにかできないか無駄な努力を続けていた。つるつるした床の模様は大理石を模したものだが多分本物じゃない。わざとらしくあしらわれたアンモナイトの渦巻きはモール中の雑音を集めて耳鳴りに変えている。それを生み出す客の誰もが、俺のされたことを知っているような気がした。よくある話さ、酔いに任せて余計なお喋りをやめなかったせいで痛い目見るっていうのはね。それにしたっていくらなんでもあんなのは、下手物食いもいいところだって……
「ジル、家に帰る? レクには私から電話しとくから。今だと職場? それとも……」
「もう居ないだろ」俺は腰骨の上に添えられた手のひらの感触を思い出した。「ヨスタトは」
ネルシャは何か言いたげにしたが、俺の青い(多分)顔を見て口をつぐんだ。彼女の数多ある美点の一つだ、何も言わずとも人がしてほしくないことが分かる。俺はこの状態で家とヨスタトの話なんてしたくなかった。飽き飽きしている、ヨスタトが俺を置いていったことを恨むのにも、悲しみに胸を引き裂かれそうだなんて陳腐なリアクションを自覚するのにも。彼が恋しくてたまらなかった。大理石の海で偽物の化石が泳ぎだし、耳をつく足音のすべてが携える想像上の目が一斉にこちらを向いた。俺はみじめったらしく背中を丸め、肩を撫でる細い指の重みが荒っぽく乱暴な肌触りに変わるのを阻もうと必死になった。慣れたニレ語の悪態が電光掲示板の表示のように次々と脳裏に閃く。頭痛がした。他人に本気で殴られたのは久々で、頭をやられれば足元がおぼつかなくなることも忘れていた。数発でこの世の境が斑に抜けて、まだ兄貴が生きているような気が六分の一くらいの割合でしはじめ、次に目の前の景色がはっきりした時にはもう地面に這いつくばっていて、その上かなりみっともない姿にされていた。
ジルナク? と優しい声が降る。俺は路地裏の灰混じりの地面から顔を上げた。親友は普段通りの笑顔を思いやりの分だけ曇らせて、俺の手をそっと握った。そして長すぎる沈黙のあとで、ネルシャは何でもないことのようにこう呟いた。
「レク、心配してたよ」
… … …
奔放に伸びていきがちな前庭の草は程よい具合に葉を間引かれ、 玄関扉には小洒落たドライフラワーのブーケがつり下げられている。とんだ少女趣味だがこれは向かいの婆さんの好意のあらわれで、俺が家を出た日には別の花が束ねられていた。つまりこの家には住人Aの外出のあとも住人Bが居たということだ。ネルシャ・リノツクは嘘つきじゃない。口喧嘩しながら塗ったペールブルーが沈みかけの太陽から渡されたオレンジにすっかり参ってしまったあたりの時間帯、キッチンのある方向からは時折食器の音が聞こえる。晩飯の仕度をしているのだ、俺がもう二度と会えないとばかり思っていた男は。ポーチの段を踏むごとに、俺の足は重くなった。靴底がいちいち離れがたいと粘るように感じたが、言うまでもなく錯覚だった。あれも錯覚だったんだろうか、掃除中にうっかりぶちまけた引き出しの中身、贈ったばかりの万年筆とよれよれのガイドブックの間に挟まれたニレ行きの航空券。イズカイアでも指折りのビーチの青を切り取る半光沢の白は、じきに終わりが来ることを最も単純な手段で告げていた。真面目くさった数字の並びは記憶の中では未来の日付だが、現実では既に過去となっている。ヨスタトは飛行機に乗らなかったのだ。(もっともそれが真であるのは室内の明かりの下で物音を立てているのがヨスタトである場合に限る……)
俺はきっかり三度躊躇い、無意味に鏡板の浮いた木目を視線でなぞりながら、ついに呼び鈴を鳴らした。
開いてる、と返事はただそれだけだった。くぐもった音はこの薄い木板のすぐ向こうからしているようにも思える。頭が妙に重たい。足元から伸びる影は頭を草むらに浸し、主の相談には答える気がなさそうだ。この無責任な味方が所在なさげに伸ばした手はドアの取っ手に向かって折れ曲がり、俺の指先で終わっている。そいつを思い切って引いてしまうと、予想通りの、それでもあまり望ましくはなかった光景が広がった。出ていく前と変わらぬ
嫌な汗が襟足に湧き、背の溝を通って滑り落ちていく。目が回るようなおどけた感覚とともに床が近づき、両膝の痛みでようやく自分がまともに立てていなかったことに気づいた。意思とは無関係に背が丸まって、水っぽい不愉快な音が掃除の行き届いた玄関に散らばる。リビングでなくてよかった、タイルなら掃除がしやすい。俺は二人で並べた灰色のタイルのがたがたした部分を隠しきれないここ数日の、特に今日の昼飯のあまりの貧相さに呆れ返った。ほとんど水ばかりであとはみじめったらしく消化されかけの硬貨大の固形(辛うじて)物、キャスト紹介はそれっきりで終わってしまっている。俺は笑い出そうとしてまた腹の底を突かれるようにして嘔吐したが、それもすぐ吐くものが足りずにえづいているだけになった。唾液とも胃液ともつかない粘性の雫が唇の先から垂れる。縒り合わせない合成の糸……そこに影が重なる。ヨスタトが先の欠けた片膝をついて傍らにしゃがみこみ、欠けたところのない手のひらが僅かな重みをかけながら、小さい子をあやす調子で背の上を撫でていく。その温かさで俺の頭はめちゃくちゃになった。こいつはどうして俺に哀れみをかけてくれるんだ?
「ヨスタト」
上っ面だけの謝罪にはつきものの涙が溢れてくるのが分かる。最悪だ。俺は体を起こし、さっきから、はじめから優しさばかり人にやるヨスタトの胸ぐらを掴んだ。シャツの隙間から不幸な過去が見え隠れするのを、この数年で初めて恐ろしく思った。
「行きたいならどこへでもさっさと行けよ、放り出せばいい、どこへでも行っちまえ、あんたは本当はどこへも行きたくないし誰とも居たくないのに、俺と南の国なんかで家族ごっこにかまけてた、くそったれ、そうやって中途半端に格好つけやがって」
実際はこんなに流暢に喋れてはいない、グズグズした嗚咽ともっと不愉快な中断とでぶつ切りにされた一連の台詞はとても満足に聞き取れたものじゃなかっただろう。それでもヨスタトは特に口も挟まずに、かといって適当に流している風でもなく静かに耳を傾けていた。俺はすがりついてみたり揺すぶってみたり拳で叩いてみたりと迷惑千万の駄々をこねたあと、急に力が抜けてしまって危うく自分の作った水溜まりの上に寝そべる羽目になるところだった。俺の兄貴代わりの男はその前にきちんと腕を回して体を支え、その流れでふぬけた弟分を立ち上がらせてくれた。
「俺は死にたくない。でも一人で生きていきたい訳じゃない……他の誰かでも嫌だ。俺はあんたと生きたかったんだよ」
俺は彼に引きずられるようにして歩きながら、ぶつくさ言っていた。ぶん殴られたあとのような振動と喉の痛みとが続いている。意識の一部は世迷い事を呟いてはヨスタトの耳を煩わせていたが、一部はそういう場面を遠巻きにして冷めていた。長くもない廊下を踏み荒らしてどこに向かっているか、前者には全く予測できていなかったが後者は一歩目から見当がついていた。やたらと重たい俺をいったん洗面器の縁に預けたヨスタトは、うがい用に置いてあるファンシーな柄のメラミンカップで急病人に口をゆすがせた。一口ごとに不快感がぬぐい去られてだいぶ楽になる。俺の唇はまた「お節介野郎め」と余計なことを口走った。それから聞き流したらしいヨスタトが自分を床に座らせた時、妙に居心地が悪くなりだした。きまりが悪いともいえる。理由は後追いでやってきた、というのもヨスタトが俺のシャツの裾に手をかけたからで、先月の日付と国立公園のロゴとが洗濯カゴに放られるのを風呂場の壁に背を預けたままなすすべもなく見守っていると、そのきまり悪さは益々強くなった。彼に服を脱がされている間、俺は自分が赤ん坊に戻ったような気がしていた。それから頭に浮かぶことといったら融けた雪でびしょ濡れになった俺を見る兄貴の目尻のしわとか、風邪っ引きの熱い額に当てられた母親の手のひらの温度とか、枕元でスープを冷ましてくれた父親が落とした影の大きさとかそういった冬の日の一コマで、それもすっかり裸にされてしまうと、ヨスタトの無関心なまなざしだけが波が引いた後に残された貝殻かなにかのように頭の中へ現れた。正確にはいま目にしている光景だったが。
ヨスタトは空腹でも華奢とは言い難い弟分の体を軽々と抱き上げると(こういうところにキャリアが出る)、空っぽの浴槽の中に入れた。樹脂の肌触りは生身の腕と綿布とはまるで違い、冷たくもないのに身震いが出る。彼は仕事のしめくくりにカランをひねり、その後でチェーンの先の栓をしかるべき場所に押し込んだ。脚の間で用事を済まされるのは具合が悪いでもなかったが、それも今さらのことだった。
風呂の底と肌の隙間から、ぬるい水が溜まっていく。くすぐったさとむず痒さのあいの子になった水面がほんの少しずつせりあがり、骨っぽい足の甲がその下に沈む。沈みかけの日は色気つきで、反射と透過とでこの小さな海は驚くほど複雑な顔を見せた。視線を上げれば厳冬の寒空に行き当たり、二つの季節の間で俺の心はどうしようもなく惨めになった。重くなってきた瞼を閉じて浴槽の縁に頭を預けると、火傷の痕をややざらついた指先が滑り、髪をすいてまた額に戻り、それを延々と繰り返した。かさを増していく水の音と、別世界のような外の物音だけが浴室を満たしている。俺は不思議だった。ヨスタトの手とあの男の手は何が違うんだろうか。指が五本あって、それぞれ先端に爪がくっついていて、親指は二本、ほかは三本の骨からなる。それがもう一本ずつと接続していて、根本には小さな骨がひとかたまりになってなめらかで自由な動きを可能にしている……
「ヨスタト」
呼びかけると手の動きは止まった。それから少しして、水の音も止まる。後には滴の落ちる音だけが続いた。もう水位は胸のところまできてしまっていた。これ以上放っておくと溢れるし、あまり溜めすぎても寒くてよくない。気温は高く、水はほとんど体温で自分と透明な液体との境が曖昧で、まさしくこの南国での暮らしにそっくりだった。俺に自分が失ったものを嫌でも思い出させてくる灼熱の日差しと陽気な人々、イスパ・クク・ジルナクの『普通』がどこにもない世界。父親が好きだった曲のレコードも、母親が勤めていた仕立て屋も、兄貴のお気に入りのバーも、ここには存在しなかった。毎日うだるような暑さで、紫外線に皮膚の健康を脅かされ、食べ物は馴染みのない海産魚とトロピカルフルーツで、どこへ行っても浮かれた観光客がうろつき、最高の国立公園があり、親切なお向かいさんと鳥仲間のネルシャがいて、いい教員と施設を揃えた大学があった。この家と、家具と、毎日のくだらないおしゃべり。俺の人生をすっかり書き換えてしまったあとで、ヨスタトは断りもなくチケットをとっていた。直行便はサンナにしか行かない。
「ここは地獄だ」身じろぎすると今さらのように体が痛かった。特にひどく押さえつけられたところが。「俺をこんなところに置いていかないでくれ」
瞼を開く勇気がない。体のあちこちで思い出している屈辱と恐怖とをこれ見よがしに掲げることで、彼の首を縦に振らせたいその魂胆が自分でもはっきり感じ取れていた。俺は白く濁った右の目も使うだろう、さっきその上の火傷に触れたことも引き合いに出して、彼に諦めさせようとする……とはいえ考えてみればこれほど執着する理由は彼が俺の事情を知っていて、側にいて、優しさを与えてくれるというからで、俺がこうして懇願してみせるのも置いていかれたくないからというのが真実な気がする。喉まで出かかった次の恨み言をやっとのことですり潰しため息に混ぜて吐き出すと、それに呼応するように窓から風が舞い込んだ。そよ風は水に浸かっていない部分の肌を心地よく冷やし、睫毛の先をこそばゆくさせた。この刺激に誘われて、さっきまで意気地なく落ちていた瞼がようやくしゃんと開いた。明るくなった視界には当然のようにヨスタトがいる、傍らに跪いて見守ってくれている。この甘く端正な顔立ちで一体何人の女をたぶらかしてきたことだろう? 俺は答えを知っている。ひとりだ、たったひとりきり。彼女はヨスタトの未来だった。ヒトが手に入れた最大の道具は未来という話もあるが、明日を奪われた人間はどうやって人生を積み上げていけばいいのだろう? こちらの問いは哲学で、俺の手持ちにはぴったりの回答がない。ただ確かなことは──やるせなくなって動かした手のひらがかき回す水の温度と体温とがやはり全く異なる性質であるのと同じように、ヨスタト・バル・ツァーレクは赤の他人だということだった。ことのはじめから俺は彼の弟ではなかったし、彼は俺の婚約者でもなかった。単に協力して逃げてきたというだけの話で、ほとぼりが冷めてしまえばこの共犯関係も終わりになる筈だったのだ。少しのお節介と少しの甘えが、間違った位置に役者を置いたまま日常らしい輪郭のものを作り上げていっただけだ、俺の火傷の後にひきつれた肉が作られたのと、ヨスタトの脚の断端を柔らかい脂肪が覆ったのと何ら変わりない、ある状態への緩やかな適応として……
叔父や兄貴の部下を頼らなかったのは彼らがなくした家族の代わりにはならなかったからだというのに、今のこの有り様はなんだ? 他人に寄りかかって平気な顔をしていたこのイズカイアでの日々の浅ましさを、再び自分自身と区別のつかなくなったぬるい水が教えている。思い込みや錯覚は人生をほんのちょっぴり生きやすくするスパイスだが、多過ぎれば毒になる。俺はこのときはっきりと自覚した、ここ数日俺の身体を這い回っていた他人の手のひらは、まさに俺自身のものだったわけだ。こんなことなら早いとこ帰って来てさっぱりすればよかったと、笑いが込み上げてくる。それと同時に言うべきことも。
「ひと月くれよ、新しいチケットをとってやるから。ファーストクラスとはいかないが、カメラを我慢すればビジネスクラスならなんとか」
手のひら返しにこんなことを口走るさっき吐いたばかりの男を、ヨスタトは訝しむそぶりもなく眺めていた。視線はいつまで経っても日に焼けられない俺の肌の上を波打ち際に沿って滑り、それから一度だけ、ほんの僅かな一瞬だけ、もっと底の方を浚った。
「大丈夫なのか?」
「心配すんなよ、生きてりゃたまにはこういうこともある」元気になってきた俺は余裕ぶってにやりとした。「二度はごめんだが」
「こちとらわざわざキャンセルの電話を入れたんだぞ。お前が心配で」
彼がそう言って呆れ笑いを溢したとき、俺の気持ちはくしゃくしゃになった。いっそのことこの嘘に浸かったままにしておいてもいいんじゃないか、なんて甘い考えがふつふつと煮え立った。ようやくだらけた体勢を変えて情けなくなりかけの顔を洗うと、俺の甘ったれ部分は静かになった。もう嘘はたくさんだ。散々したいようにしてきたんだから、今度は彼がしたいようにさせてやるべきだった。鼻の頭や髪の先から落ちる滴を数えていると、ヨスタトはややためらうような間を置いてから、犬にでもやるように俺の頭を雑っぽく撫でた。
本当にひと月貰った俺は早速チケットを予約した。サンナ行き、秘密にしてるがファーストクラスだ。どうせ大した礼もできずに終わるのだからと、俺は形の残らない贈り物として快適な旅を選んだのだった。お陰でカメラもレンズもお預けだが、それでおまんま食い上げってわけでもない。チケットを部屋の引き出しにしまいこんでから向こう、俺たちはなるべくいつも通りに、だが少しだけ贅沢をして過ごした。面白くもないスポーツ中継を見るときも必ずいいスナック菓子を用意しておく、といった具合に。気が向けばキスもした。喫煙の習慣がむやみと甘くなりがちなこうした触れあいをほろ苦く引き締めてくれていた。以前ならこの類いのコミュニケーションはごめん蒙ると頑なだった彼も、期限を決めてしまってからは随分とおおらかになった。世界滅亡が告知されたら人類は有史以来最も互いに寛容な時代を経験するだろう、なんて下らない説も割と真面目に唱えたくなる。このひと月彼は優しく、俺も優しかった。
そうしてあっという間に(楽しい時間にはありがちなことだ)予定の日になった。俺は最後を晩餐ではなくありふれた朝食にするために、わざわざ昼ごろのフライトを用意していた。南国の朝日はどこにも陰を作らず部屋を明るく満たし、気持ちよく晴れた青空が天井を透かして見えるようだった。お隣から貰ったフルーツジュース、ネルの母親が焼いたくるみ入りのパン、昨日の残り物をふんだんに混ぜこんだオムレツ、厚切りにした輸入もののでかいソーセージ、それから、ひと月前に煮て瓶に詰めたマンゴージャム。今日で使いきりになった。ヨスタトがしたのは他愛のない世間話で、時折俺の好きそうな珍しい鳥の話題を振った。概ね羽の色、あとは鳴き声や生息地なんかで類推したそれらの名前は全部当てている自信があった。
「晴れたな。大荒れだったらどうしようかと思ったよ」
ヨスタトは頷いてコップを手にした。顎が少し上向いて、喉仏が静かに上下するのを俺は真剣ぶって観察した。人が飲み食いしているのは決して鳥のそれほど楽しい景色じゃなかったとはいえ、彼の所作は淀みなく上品だった。気を張っているわけでも凝ったマナーを披露しているわけでもないのにそう見えるのは、あの日の前からなのかそうでないのかと意味のないことを考えた。
「向こうは雪らしいぞ。空港でマフラーを買わなきゃならない」
「あんまり高くないといいな」
ひと月前なら選んでやるよ、だったはずの台詞も今ではちょうどいい距離に落ち着いている。彼のこれからの持ち物に他人は必要ない。
空港は解放感のある作りになっていて、窓と呼ぶには面積の広すぎる窓からは滑走路とその向こう岸に伸びるビーチが一望できた。確かここ出身の有名な建築家の設計で、これからのバカンスを楽しもうというはしゃいだ顔の観光客も、旅行の疲れと充足感に笑む外国人も、ここから旅立っていく若い学生や里帰りらしいこなれた様子の家族連れ、あとはただ移動手段として利用する人々、その誰しもにこの国の風土にある陽気な快活さを向けていた。俺はほとんど手ぶらでやってきて、大部分が衣類で膨れたヨスタトの鞄が揺れるのを横目に見ながら周囲を行き交う人々の姿を観察していた。同じ方向へ歩いていく人間の中にはヨスタトと同じ飛行機に乗るやつもいるだろう。それどころかご近所さんさえいるかもしれない。ああいう席を使う人間は一人が好きなのか、それとも金持ちにありがちな寂しがりやで話しかけてくるんだろうか、と言ったらヨスタトは空港を満たす自然光そのままにからりと笑い、あれはぐっすり眠っていい飯を食うためにあるんだよ、と答えた。
マフラーやら軽食やらここまごまとした物品を買い足していると、やがていい頃合いになった。ターミナルのロビーで俺たちはハグをした。端から見れば友人同士の場面なんだろう、俺たちは同じ戦場で負傷した元軍人の親友かなにかで、南に住んでいる俺を訪ねてきた彼が今から母国に帰るところだ。また来るよ、いや、今度は俺がそっちに行くよ。なんてやりとりをしながら、しばしの別れのお見送りだ。俺はヨスタトの案外逞しい腕の中で、以外と温かい身体を抱いて、もう自分の一部のように親しんだ煙草の香りを吸って、時間が止まったように感じていた。たった数秒を誇張するのに濫用され通しの、あまりに感傷的で陳腐な表現だ。離れていく彼の全てが惜しかった。何よりもその瞳が。今までやたらと故郷に例えてきてはいたものの、改めて目の前にするとこの色はこの世の何にも似ていないのだと思う。彼の目がこちらを向いているときにだけ目にすることのできる、感覚器の繊細な構造を反映した美しい無彩色。もう二度とこの色には出会えない。
「じゃあな、ヨスタト。死ぬなよ」
「わざわざやろうとしなくても、死ぬときは死ぬもんだ」ヨスタトはまた目を細めて笑った。「お前こそ気を付けろよ。よそ見して崖から落ちるなんてことになったら……」
彼の表情、下瞼の陰をつくったあたりと唇の端にほのかな苦痛のようなものが滲んだ。このお節介な兄貴分はまた俺を心配して、それを自覚して苦しんだらしかった。俺がヨスタトの未来にもう関わりがないのと同じで、俺の未来も彼とは無関係なのだ。今心配しても届かない、この空港のピカピカした真っ白のラバーシートの上を転がって、いずれ誰かの靴の裏で粉々になってしまうか、でなかったら床につくまでに蒸発して終わりになる。彼は鞄を抱え直し、やがて遂に葛藤も迷いも捨て去った様子でごく穏やかに微笑んでみせた。
「ジルナク、さよなら」
「さよなら」
ヨスタトは検査所へ向かって歩きだし、遠心力と淡い風とで裾がわずかに浮き上がった。係員とやりとりをする姿を見ていると、また悪い虫がうずきだすのが分かった。うーん、今からあいつを追いかけて、やっぱり俺も行くよ、って言おうかな。ダーリン、待って、あたしも連れてって!
馬鹿な想像はもちろん現実にはならない。第一、空港の職員に迷惑だ。第二に、今日あの便には空席がない。第三に……俺は別にそんなことをしたくもない。さよならを言ったそのままの姿勢で大人しく見送る。二度と振り返らない背中が人に紛れて消えたとき、楽しかったバカンスは終わりになった。一人分の空白は当然のように傷に滲みた。でも一ヶ月前の体調不良(・・・・)の理由を親友に誤魔化してきたように、この虚しさもどうにかはぐらかしてやっていけるだろう。空港の窓からも見えているイズカイアの宝、豊かにきらめく海は誰の感傷も乗せずにさざめき、焼けつくような日差しから受け取った色と光を軽快に撒き散らしている。エメラルド・グリーンの地獄は未遂の爆弾魔が余生を送るのにぴったりだ。広くなった部屋のことを考える。ルームメイトでも入れるかな。