暮らし

「ジル、あなたまた痩せたのね」
 そうかもしれないな、と答える。ハイディラ・オデナの背中は見事な曲線を描き、余分な肉も皮もなくぴったりとした黒のドレスに包まれている。豊かな黒髪には白髪が混じっているものの、彼女は老いを楽しんでいたから、むしろ優美な装飾のひとつにしかならなかった。ネックレスを外すため、つけ爪をした指がうなじを覆う。新進気鋭のデザイナーがあろうことかはめ殺しにしたスリット状の窓から、六時を過ぎてもまだ沈まない陽の光が、やりすぎなくらいドラマチックに差していた。この焦がしたバターのような光線は、不器用にもたつく指先とそれらの繋がる手の甲の陰影をことさらに強調した。皺くちゃとはほど遠いが、浮き彫りにされた腱と血管のありさまはもっと若い女、例えばネルシャ・リノツクのような女には無縁の造形だった。ようやく首輪を外し終えた年増女は振り返り、俺に向かって愛情たっぷりに微笑んでみせた。俺も同じものを返してやる。向こうは妖艶そのものの金持ちのマダム……といった具合でなかなか趣があるが、こっちは裸でベッドのへりに腰かけて、隠すものも隠さず手遊びなんかしているんだから滑稽だ。きなり色になった白い部屋に、はじめは硬質な、それからハイヒールが投げ捨てられてしまってからは柔らかでごく僅かな湿り気を帯びた足音が、きっかり十六歩ぶん反響した。俺の首に腕を回したハイディラは、情熱的な口づけで自分と相手の理性を追い払い、裾をずりあげてむき出しにした膝を俺の脚の間に押し付けた。
 この女に飼われている。ここは清潔で洒落てはいるものの実質ヤり部屋で、家具といえばベッドのほかは小机くらいしか家具がなかった。椅子すらない。敷物もない。南国の驕りで全面が冷たい石でできている。磨き抜かれた美しい模様の中には、時折思いがけないお仲間が見つかり、太古の生命のロマンにひたることもできた。だが鳥はいなかった。まだ歴史の舞台に登場していないのだ、この頃は。
「ジル、脱がせて頂戴」
「はいはい」
 個人的に汚したくはない高い服を手早く取っ払い、ついでに下着も脱がせてしまう。いい眺めではあったが今からすることには必要ない。メンテナンスに相当金をかけているらしい金持ち女の体はしなやかで艶があり、誤魔化しきれない首や上腕の筋っぽさ、腰回りの若干の弛みも勿論のこと全部含めて、美しかった。顔の方は言わずもがなだ、商売道具だから元から造りがいいんだろう。若い頃の写真も映像もこの国ではどこでだって見られたが、俺はふっくらしていた幼げな彼女より、いまの彼女のほうが好きだと思った。甘さが抜けて、芯の強さと経験に裏打ちされた厳しさばかりが強調されていく、華やかな面差し……
 俺たちはなめくじみたいにのそのそと移動すると、そのままなめくじを続けて絡み合った。彼女は俺の傷痕全部を確認せずにはいられない様子だったが、特にお気に入りなのは、他の男の顔の上にはあまりお目にかかれない大きな火傷の痕だった。俺はこめかみを舐められながら、豊かな胸を愛撫し、それで暖かい吐息がケロイドを濡らすのに満足した。固くなった乳頭を口に含むと、自分がバカになったみたいで笑えてくる。この乳房で彼女はこれまでに二人の赤ん坊を養ったが、二人とも言葉を喋りだす前に亡くなった。それが原因で離婚したのだと、前に言っていた。繋がったままの湿っぽい思い出話はいかにも人を萎えさせそうなものだが、俺は変態なのでむしろそそられて、彼女が(一応言っておくと、悦びの)悲鳴をあげるまで激しく突いてやった覚えがある。死んだ人間の話はいい。感傷的で独りよがりで、どこまでも不毛だ。それに無責任な家族のことを思うといつだって、いま目の前に居る人間がいとおしくなる。冷たい指が敏感な部分に触れると、濡れた皮膚が一瞬だけ距離をとり、反射的な刺激の受容が終わってしまってからはむしろ、まとわりつくように粘膜が押し付けられた。滲み出てくるものにロマンチックな意味はない、保護と補助、それだけでは味気ないから愛だとか愉悦だとか、あるいは情と名のつく色々なものに関連付けられている。男の方だって同じだ、いい具合に摩擦されれば膨らむというだけのことで、俺が彼女を愛するからわざわざ勃ててやっている訳じゃない。その辺が単純にできているのは、そこに至るまでの過程が複雑な生殖において、せめて作業自体は簡単にしてやろうという粋なはからいなんだろうか。俺はくだらない考えに脱線し、場違いな笑いを諌められた。ニレ人は創造主を信じない。仮に居たとして、まさか舌を入れたりだとか口に含んだりだとかを生命のデザインに組み込むこともないだろう、その辺は矮小なヒトが勝手に考え出したことだ。セックスの最中は上と下もなく、お互いの位置はぐるぐる変わるが、こんなのが求愛のダンスならやっていられないとも思う。ひとしきりくんずほぐれつしてお互いを励ましあった俺たちは、最終的にスタンダードな形に落ち着いた。俺は彼女の上に覆い被さるようにして距離を詰めながら、向こうからの合図を律儀に待つ。
「もう我慢できない……ジル、そろそろあなたが欲しい」
 そら来た。「俺もそうしようと思ってた所だよ」
 それから四、五通りのバリエーションを試したところで、今回の分は終わりになった。彼女の中に細胞を撒き散らしてしまった後も、俺はそのまま熱い体温を味わっていた。まだほんの少し残った痙攣も、そのうちに落ち着くだろう。すがりつく姿勢のままぐったりとした彼女の髪が口元を覆っていたが、暑苦しくはなかった。いい香りがする。この香りが好きでここにいるのかもしれない、と俺はぼんやり考えた。
「新しい本を買っておいたから読んでね」と囁きかける声は掠れて上ずっていた。「それと、パーティでミ・ヨーズルに会って……写真を貰ってきたのよ、あなたの好きなマツヨイと、それとあの……なんだったかしら」
「ユキチョウだろ。ありがとう、ディラ」
「ジルナク、あなたが好きよ」
 俺は答えなかった。外はすっかり暗くなっていて、部屋を満たすのは月明かりだけだった。イズカイアの夜は間違いなくニレの夜とは違う。俺の故郷は昼でさえ、この国の夜の明度に勝てなかった。そんな暗い昼の世界に戻っていった男のことを考える。彼が残していってくれたものはもう何もなかった。彼の置いていった金に手をつけずにいると、学費の支払いが苦しかった。そんな時だ、ハイディラと会ったのは。できすぎた偶然の助けで俺はいい家に越し、いいものを食べ、好きな本を飽きるほど読んだ。小さなスクリーンを独り占めして博物館にしまいこまれていた記録映像を観たし、着るものにも困らなかった。もちろん対価として支払うべきものがあった、彼女の孤独を埋めてやることが俺の仕事になって、いつしかそれには学校が邪魔になっていた。本末転倒ではあったが、休みがちになるうち、レポートも試験もどうでもよくなった。籍はまだあるだろうが、Fが積み重なってそのうち追い出されることになりそうだ。けだるげなキスの感触が鎖骨の上に落とされる、あの日ちょうど俺のところへ飛んできた破片に刻まれた、傷痕の一筋走るあたりに。彼女はいい成績をとっても褒めてはくれないし、卒業を喜んでもくれない。そうしてくれそうな人間を頭の中で探したら、誰かが楽しげに笑った。ヨスタトだ。ヨスタトは自分の世話焼きで俺がまともになっていくのが嬉しいようだった。あの頃は幸せだった、あの頃あった全てが俺の財産で大切だ、なに一つ忘れたものはない! ところがどっこい、懐かしい気持ちに浸っても、ヨスタトの顔はうまく思い出せなかった。ハイディラの好きな煙草が香る。