俺達は、もっと

 ・殴りあったり
 大きな溜め息のあと、お前が悪いんだぞ、と普段と変わらぬ声をかけてから、ヨスタトは思い切り俺の右頬を殴った。強烈なストレート。だが記憶を失って倒れている自分を発見していないことから、手加減をされたと分かる。ふざけたやつだ。マウスピースを噛み締めると、一秒遅れで周りの歓声が耳に入った。特設のリングは俺の金持ちの同級生の、やたらと広くてリッチな内装のクラブの真ん中で照明の光を一身に浴びている……正確には上の三人がそいつを分けあっている。すなわち俺、ヨスタト、審判の──ヨスタトの同僚で、資格を持ったちゃんとした審判のニール・ドランだ。丸太のように太い褐色の腕が、ポロシャツの袖を破裂させそうに押し広げている。軽く足踏みする対戦相手の後ろの暗がりには、囃し立てる親友の笑顔が見えた。あいつめ、第一ラウンドの最初の五秒だってのにもうすっかり出来上がって、ヨスタトにぞっこんのラスティラ・チトックと肩なんか組んでやがる。ジルナク~、まけちゃえ~。
「初心者相手にひどくないか?」俺はまだぴちぴちした自分をアピールするために軽く跳び跳ねた。「だのに手加減しやがって。後悔させてやるよ」
後悔するのはお前の方だと言わんばかりに飛んでくる中段強攻撃を避け(格闘ゲームの言い方だ)、代わりに何発か打ち込んでやる。全部当たらない。当然だ、経験が違う。いま急ごしらえのマットを擦った彼の義足はずっとそのキャリアとともにあった。おお、恐るべきかな元諜報員! 牽制の弱攻撃のやりとりの合間にも鋭い一撃が狙ってくる。たまに打ち合うと、やられるばかりではない俺の拳も入る。第一ラウンド終了。次のラウンドも同じ具合に進む。次も、その次も。俺たちにはボクシングの作法はよくわからないから完全な見よう見まねで不完全なケンカスタイルの殴りあいだが、これでなかなか観客は盛り上がっていた。今回の対戦カードを組んだ悪友、ネルシャは間抜けな声でどちらの選手にも平等に賛辞と野次とを飛ばしていた。誰も彼も俺たちどちらかの知った顔で、普段はお目にかかれない知り合いの殴りあい、もとい紳士的なゲームを楽しんでいた。ヨスタトは? 悔しいことにこの色男の息はまったく乱れちゃいない。ふだんは後ろに撫で付けている前髪がばらけてきて額に落かかってる様子は最高にいい眺めだし、息はともかく滲んできた汗が控えめに光る襟元は(ヨスタトは上を脱ぐのをかたくなに拒んだが、二つあるボタンはひとつだけ開けた)文句なしに最高のさらに上と言っていい。つつましいヨスタトが肌を晒すのを嫌がっている理由のひとつは、そのランダムな凹凸を強調されて鱗のように見えた。なにもない方の首筋を、汗が一筋滑り降りる。熱い視線に気づいたのか、冷たい灰色の視線がじりじり俺のケロイドをあぶった。
「ヨスタト、来いよ、溜まってんだろ」
 俺が挑発すると、会場がニヤニヤした賑やかしの声に包まれた。意外にもうんざりした顔を見せなかったヨスタトは、口の片端をつり上げて笑い、両腕を広げて露骨に性的なニュアンスを出したやり方で、ゆっくり片目を瞑ってみせた。酔っぱらいどもが沸く。ラスティラは真っ赤になってあたふたしていた。
「それじゃお前から、せいぜい楽しませてくれ」
 仰せの通りに、俺は特に戦略もなくヨスタトの頬を殴り付けた。間髪入れずに脇腹へ反撃が来る、振動が頭まで伝わってくる前に二撃目を顎へお見舞いすると、それを受けたヨスタトから強烈な一打が放たれて、俺の視界は大きく横へ振られ、強い照明に強調された汗の雫がガラスの破片のように散った。もう回避も防御もなしの純粋な殴りあいだ。ばねを生かして躍動する元上司の肉体に、お古のグローブがぶつかった時の鈍い衝撃。脳震盪寸前の耳鳴りの奥に聞く破裂音。閃光、乾いた足音、時折凍てついた故郷の冬空を見る。アスファルトにも、霜の降りた排気筒にも似ている。痣になった右の瞼は閉じかけていて、母親がどんなスープにも入れたがったビーツのことを思い出させてくれる。嬉しいことに、彼の唇は仄かに笑んでいるのが分かった。俺は楽しかった。兄貴ともこんな遊びはしなかった、歳が離れすぎていたから。
・泣き喚いたり
 俺は予想もしていなかった。クールに別れを惜しんでくれるはずの弟分は、つい何秒か前には豪華な装丁のケースに収まっていた卒業証書の紙吹雪の真ん中で立ち尽くし、冗談みたいに目を見開いて、言葉も出せずに唇を震わせていた。俺は何か言ってやろうとしたが、言ってやれることがなかった。ジルナクは、周りから数年遅れで入った大学を卒業したばかりの立派な大人は、やっとのことでまばたきをひとつした。すると目頭のあたりから大粒の涙が転がり落ち、青白い頬の上はそれを皮切りに土砂降りになった。雨粒はまっ白な新品のシャツや傷だらけの我が家の床板にも降り注ぎ、色のない染みをつくった。
「どうして」絞り出すような一言のあと、なにか悪い発作でも起こしたような息づかいが続き、集合写真には珍しく弾けるような笑みで映った顔が、苦しげに歪んだ。「どうして今日なんだよ」
「何ヵ月も前から決めてたんだ。言わずにいたのは悪かった。だけどな、邪魔をしたくなかったんだよ。お前には書かなきゃならない論文がいくらでもあったし、それに……それにもう大人だろうが」
「ひどい、あんたはひどい、あんまりだ、ひとでなしだ……」
 ジルナクはいやいやをするようにかぶりをふり、まったく絶望した様子で俺に詰め寄った。まずいとは思ったが、南国暮らしで鈍った体はとっさには動かず、今日のために(二重の意味で今日のために)新調したスーツの襟が拳の中で皺になった。悲痛な叫び声が耳をつく。ヨスタト、なんでだよ!
「どんな気持ちだったんだ? 俺が来年の話をしてたとき……あんたは適当に相槌を打ちながら、腹の中じゃずっといなくなることを考えてたんだ! くそったれ! どうして俺を大学になんて入れたんだよ、どうして俺をイズカイアなんかに連れてきたんだよ、どうしてあの時俺を殺さなかったんだ!」ひとしきり喚いたあと、彼は激しくしゃくりあげた。「俺は爆弾を作って、ニレで、死にたかったのに」
 なんてこった。俺は自分にすがり付いて嗚咽を漏らすこの男が、かわいそうになってきた。ひとりぼっちにしようとしたのを後悔したとかそういうことじゃない、こいつはこっちがどんなに育ててやっても、十六歳のガキのままなんだ。授業でどんなに価値あることを学んでも、形式通りの文章を連ねても、こいつは一歩も進めやしない、兄貴を探してうろうろしている馬鹿な子供から変われないんだ。俺は涙が出そうになった。いつの間にか二人して床に膝をついている。
「俺だってつらいさ」ジルナクのシャツに新しい染みがついた。「くそ、ふざけるな、ジルナク」だんだん自制がきかなくなってくるのが分かる。当たり前だ、むかし一緒に死体を焼いてた男の泣き声なんか聞かされているんだぞ……「暢気に未来の話なんかしやがって! 俺にはそんなものない、俺はやり直せないんだぞ」勝手に喋りだした自分の告白を、どこか冷めた思いで聞く。「散々ひとを頼っておいて、こんなに細やかな俺の願いも叶えちゃくれないのか、お前こそひとでなしだ」
 俺たちは中身のない言葉で罵りあった。頭のどこかではこのまま飛行機に間に合わなくなればいいと思ったが、往生際の悪いジルナクもそろそろ離してくれそうな気がしたので、心のどこかでほっと安堵した。
・抱き合ったり
「ヨスタト」
 俺は珍しくぼんやりとして所在なさげな同居人を見かねて声をかけた。ひどくうすぼけた昼下がりの陽光がカーテンの繊維の隙間から忍び込み、部屋のどことも言いがたい場所で立ち尽くす男の足元へ、淡い影を作り出している。俺は読みかけの本を栞も挟まず放り出し、彼の視線の先を追った。
「あのマツヨイの写真、お前が撮ったのか」
「まさか。アイアド・ナト・ラズレクが送ってくれたんだ、本の感想のお礼にって」
 玄関からの短い廊下の一角に、それは引っかけてあった。隣の駄作は俺のもので、同じマツヨイを被写体にしていてもここまで差がつくか、と飾るときに乾いた笑いが転げ出たものだった。俺が撮ったのはただ飛んでいるだけで、背景はお決まりの夕闇、彼あるいは彼女が何を目的に飛んでいるのかは全く推測に頼るほかない、そんなマツヨイの姿だった。一方世界最高の鳥類学者が撮ったマツヨイは、枝を茂らせるトウヒの葉の合間から、窺うようにこちらを見つめている。あともう一時間もすれば日暮れが始まってしまう昼の縁にある世界の明度で彩られ、マツヨイはこう問いかけているのだった、君、いつ去るか。この小鳥はレンズの向いている間は飛び立ちたくはないのだ、だが夕方が迫っているからとっとと立ち去ってほしいという願望をありありと透かした、それでいて恨めしげでも迷惑げでもないまなざし。黒スグリのようなつぶらな瞳が、重なりあった緑の陰で生き生きと輝いている。
「欲しいならやるよ。また送ってもらえばいい」
 ヨスタトは視線を外さずに、気だるげな瞬きだけを続けている。俺は立ち上がり、ぼんやりし通しの色男の側まで行った。マツヨイとの間に割って入っても気に留める様子がなかった。悔しくなって口づけると、初めてこの眠たげな兄貴分は現実へもどってきたようだった。何か言いかけたのを見計らってまた唇を塞ぐと、指先が諫めるように頬に触れるのが分かる。俺はいったん休憩にして、彼のさえずりを待った。
「何してる」問いはシンプルだった。目は心の窓とかいうが、灰色の瞳を覗いてもやはり同じものしか抱いていない。「ジルナク……」
 文脈にも相手の意志にも気を払わずに抱くと、やる気の欠けたヨスタトの身体はなすがままにされた。汗ばんだ肌の触れ合いはだいたい不愉快な感触ばかりもたらすが、俺はシャツの下にある熱と質量に安堵と嬉しさばかりを覚えた。ヨスタトはここにいる。誰も彼を撃ち殺しに来ない場所に。
「これは俺のわがままなんだけどさ」囁きかけるついでに、形のいい耳に唇を押し当てる。また気分が良くなる。「あんたが生きていてくれると嬉しいんだ」
 兄貴気取りのお節介な元上司、陽気でお茶目でそのくせ空っぽのヨスタト・バル・ツァーレクは、軽口を叩くでも迷惑そうにするでもなく、俺の肩へ静かに頭をもたせかけた。両手は俺の背に回ったりはしなかった。俺は特に望んじゃいなかったし、十分に幸せだった。引き出しの奥の航空券を見たあとも、毎日幸せだった。一緒に飯を食い、酔っぱらい、途中から見たドラマに勝手な文句をつけ、掃除をし、家具を買い足し、俺は大学に入るための勉強をして、ヨスタトは金を稼いだ。俺は彼を海へ連れ出したがってうんざりさせる朝もあり、彼は俺の胸に耳をつけて、心臓が動いてる、なんて呟く夜もあった。生きていないとできないことだ。何もかも。腕に力を籠めて、襟元の布地の下にある凹凸を思う。この男がどう思おうと、それはとても綺麗だった。ここでは毎日が幸せだ。あの引き出しが空になって、抱き締める相手がこの家のどこにもいなくなってからも、きっと毎日が幸せなのだった。古い義足から伸びた細い影が、ここにあるすべての色と混ざりあう。
・雨に打たれながら、路地裏で必死に相手の名前を呼んだり
 同居人が傘を忘れて出ていったことに気がついたのは、もう半日も経ってしまったあとのことで、俺はたった一人の部屋で「あちゃー」とか「しまった」とかのふざけた一言をぐっと飲み込んだ。馬鹿をやっていないで届けにいかなくちゃならない。天気予報は大雨を予言していて、お決まりのスコールですら憎々しげにしてみせる兄貴分の形のいい……じゃない、とにかく横顔を思い起こさせた。俺はすぐに自分のも合わせた二本の傘をひっ掴み、早くも鉛色に濁りだした空の下へと
(中略)
 て、二人ともずぶ濡れだったが、気にも留めちゃいなかった。
「ヨスタト」
 俺が呼ぶと、彼の瞳のなかで何かがひそかに蠢くのが分かる。それが何か突き止めたくて一歩踏み出すと、彼を壁に押し付ける形になった。突き飛ばしでもするかと思われた両手は予想に反して俺の背に周り、首の後ろを這いのぼった。
「ジルナク」
 たまらなくなって唇を重ねると、待ちかねていたように彼の舌が押し入ってくる。その熱さに風邪でも引かせたかと非ロマンティックな考えが浮かびかけたが、すぐ雨音にかき消された。貪りあうようなキスの最中、唇が離れたわずかな一瞬に名を呼びあうと、互いの肌の間で温められた雨の
(後略)