イスパ教授は北国ニレの出身で、授業でもやるあのイトリ痘のアウトブレイクと、その後の政治的混乱から逃げてきたんだと言っていた。彼の頭の右側を覆う火傷の痕は、大なり小なりその事件に関わっているのだともっぱらの噂で、本人は肯定も否定もしなかった。私は初めて見たとき、この人の白すぎる肌が恐ろしかった(差別主義者の謗りを受けても仕方ない)。若い頃から髪の毛まで真っ白だったらしい。五十代も半ばの彼は顔つきこそ厳しく鋭いものの、講義で野鳥の生態や保護、環境の保全なんかについて語る姿は純粋な情熱に満ち溢れていたし、説明が分かりやすいのと気さくで飾らない態度から、生徒からは人気があった。当然私も彼を好きになった、元々そこまでやる気のなかった鳥たちにのめりこみ、専門にするくらいに。
この国に来たばかりの頃から出入りしているという国立公園に、教授はよく皆を連れていった。特にオジロユキチョウの渡りのシーズンには、故郷の話をたくさんして、どこか機嫌が良さそうだった。今日もそんな観察会のひとつで、私はグループから外れて教授の側にくっついて回っていた。研究のテーマにユキチョウを選ぶつもりだったのでおおまかな計画について相談する必要があったのと、もう一つ、私が教授と二人きりで居たいと思ったからだ。太陽が西に傾いてあたりが黄金色に染まる頃には、あちこち歩きながら随分と話し込み、もう必要な話は全部終わってしまっていた。残っているのは個人的な話だけだった。
「先生、先生って……」
私は躊躇った。自分がこれから馬鹿なことを口にしようとしているのが、痛いほどよく分かった。教授はいつものように辛抱強く、生徒の言葉に耳を傾けている。沈黙でさえも、彼は大事にしてくれた。
「先生は、ご結婚なさってないですよね」
教授は一瞬、意外そうに目を丸くした。予想外の質問だったのかもしれない。でも、すぐに暖かい微笑みを浮かべ、ゆっくりとかぶりを振った。
「いいや。してないよ」
「それは、その……」私はアイスブルーの瞳から顔をそらし、砂利道を睨み付けながら、失礼な質問を重ねた。「どうして、なんですか」
「どうして? そうだな……」
朗らかに小さく笑った教授は、すこしの間顎に手を当てて考えるしぐさをした。冗談めかしたその様子に、私は居心地の悪さからちょっとだけ救われる。教授の次の一言は、私が予想していたどの答えとも違っていた。
「彼を忘れられないからだろうね」
私は顔を上げ、教授の横顔を見つめた。彼はわずかに俯いて、唇の端に曖昧な笑みを迷わせていた。私が目にしたことのない寂しさが、落ちる影に色をつけている。忘れられない、彼。
「もう三十年近く前の話だ。私には兄のような人がいた。六歳くらい歳上で、冗談好きでハンサムで、それから左足の膝から下がない……ニレからは彼と逃げてきた、いや、私が彼に頼んだんだ、一緒に来てくれってね……」
教授の目が楽しげに細められる。薄い色の瞳の上に、遠い思い出の幻が踊っている。涙ぐんでいるのかもしれなかった。
「いまの私が持っているものは、何もかも彼に貰ったものだ。生活も、教育も、日々のちょっとした楽しみや、明日への希望……毎日が楽しかったよ。もちろん身元も不確かな外人二人、はじめはまともに仕事も見つからないし、働きづめで苦しくはあったがね。何もかも段々と良くなっていった。今でも覚えている、大学に通ってもいいかと彼に相談した夜のことを……私は冬を忘れ、未来への期待でいっぱいだった。彼もそうだと思っていた。だが、私が学生になり、二年ほど経った頃……彼は突然消えてしまった」
私は黙っていた。森を飛び交う翼の音も、暮れを知らせるさえずりも、遠い世界のもののようで、ただ、木の葉のざわめく音だけが妙にはっきりと聞こえていた。教授はベンチの前で足を止め、座ろうか、と言った。赤茶けた土の上に、私たちの影が斜めに伸びた。
「彼は忘れられなかったんだ、弱ったけものの骨まで凍らせて身動きできなくさせてしまう、あのニレの冬の寒さを。私の我儘がやがて彼の人生になってくれるはずだと信じていたが、それは甘い考えだと思い知らされたよ。あの日、空っぽの部屋の真ん中で。机の上に置かれた、安物の指輪なんかを眺めながらね。私はとんだ間抜けさ、自分の夢に酔うあまり、彼の虚無に気づけなかった。あんなに……」落ち着いていた教授の声色に、血のような赤が滲む。まだ触れただけで簡単に開いてしまう、三十年も前の傷。「彼を愛していたのに」
何時間も、私たちは黙ったままそこに座っていた。本当は数分にも満たなかったろう。だけど私たちの間には、永遠を切り取って張り付けたような、長い時間が過ぎていた。帰ろうか、と教授が立ち上がり、私に手を差しのべた。私には彼の骨ばった指のひとつに、指輪の痕が見えていた。私は手をとらずに微笑んで立ち上がり、それから二人並んで、もと来た道を歩きだした。多分私の幼稚な恋心は教授にはとうにお見通しだったんだろう。他愛のない話をしながら、死骸に変わったそれを心の奥底にしまいこむ。彼は正直だった。留守の間に猫にとられたつがいを待つユキチョウのように、居なくなってしまった人を愛し続けている。