ヨスタトが俺の頬に口づけた。何度も何度も。それで俺がくすぐったくなって笑うと、彼もつられて笑みをこぼした。その瞳の和やかな灰色にホームシックを覚えながら、おいおいどういう風の吹き回しだよ、と言えばヨスタトは同居人の肩を抱き寄せこう囁く、ジル、愛してる。こんな甘ったるい台詞を聞くとますますくすぐったいが、それ以上にこの男の体温に安堵する、もうどこにもあの冷えた悲劇は残っちゃいない、この色男が飛ばす冗談の背後にうずくまっていた死の影は、南国の陽光に溶かされ陽気な蜃気楼に変わってしまったらしい。俺はヨスタトの空いたほうの手をもてあそび、爪のかたちや骨の丸みを確かめて、好きなだけ指を絡ませた。こちらに来てからまた少し無骨になったヨスタトの指は辛抱強くこのいたずら者を受け入れた後、おもむろに力をかけて手のひらを握りこんだ。 俺はヨスタトの顔色を伺った。どうやらあっちも同じ気持ちらしかった。俺は嬉しくなる、こいつの予定は十年先まで俺で埋まってる、手入れ不足で乾いた唇の感触が心地いい。前はこんな風にあっちから始める事なんてなかった。ヨスタトの舌は温かく、ほのかな苦味がこの甘さばかりに見える男の秘密のようで、痺れるような幸福に胸が張り裂けそうになる。ヨスタト、俺もだよ、俺もあんたを愛してる……
私はうんざりさせられる背中の痛みを無視して起き上がり、目頭を揉んだ。この下らない夢を最後に見たのは何年も前だった。ぼやけた朝の無気力が部屋を満たしている。このところ掃除をさぼっているからだな、と私は適当な理由をつけてけだるさを意識の脇へ押しやった。実際、部屋は埃だらけだった。翻訳の仕事が溜まっている。家政婦でも雇おうかと検討するが、私の夢見がちな部分は発狂を疑うほどに頑なで、家に人間を入れるなら、それは胸の所に痘痕があって、左足が義足でなければ許さないと主張するのだった。私は軽く頬を叩いた。醜く老け込んじゃいないと自負していた割に、やや弛んだ感触だった。私は自分が既にみずみずしい張りに溢れた二十代の若者でない事に怯えた。記憶の中の、あるいは夢の中の彼は決して歳をとらなかった。時間が経ちすぎていた。私はこのまま起きて身支度するのを諦め、もう一度マットレスに身を横たえた。背といわず腰といわず、体の芯が年寄りらしく無様に痛む。休暇という名の作業期間はあと何日か残されている。もういい、と私は今日一日を充電に充てることにした。寝返りをうち瞼を閉じると、例の夢見がちな部分の私は、彼の体温が身体のどこかしらに残されていると錯覚しだした。怒りも哀しみもすぐに大人しくなったというのに、こういう感傷はしぶとすぎる、心底鬱陶しくてかなわない。