ニヶ月もするとあの他人行儀な先生という呼称は廃され、代わりに名前が使われるようになっていた。聡明で語学に堪能なはずの彼は耳慣れぬ不思議な発音で私をユスパと呼び、ときにはジルと、必要に迫られれば私の子ども名を囁きさえした。二ヶ月。私はこれほど短い期間のうちに、家に置いた教え子と関係を持った。指導者としてだけでなくまっとうな大人として恥ずべき行いだった。年下もいいところだ、後見人が昔の私を抱きたがらなかった理由もよく分かる。要は相手の意図が不明瞭なのだ、歳をとると色事にも慎重になるが、若い時分の動物的衝動は愛情と区別がつきにくい。間に大人ひとり入る程離れていれば尚更だ。しかし私はこうした事柄で思い悩むには疲れすぎていて、青年の眼差しは気の迷いで片付けるには余りにも真摯すぎた。ここに裏切りの腐臭が香るのだが、細かい皺の走る眦に若い唇が初めて触れた時、脳裏に浮かんだのは私の口づけに驚く彼の灰色だった。彼はやんわりと拒絶を示し、引き換えに寄越したいたわりがケロイドの表面を滑った。それで諦める訳もなかったが、思えばあの場で引き返して忘れてしまえば、彼の虚ろな傷口を押し広げることもなかったのかもしれない。私は常にこの種の愛情から注意深く距離をとってきた、恐らくは婚約者を失った瞬間から。私には無理だった。罪を犯したあの夜、仮初の幸福が別れも告げずに去っていた日の夢に引き裂かれ、私の呻きは隣で眠る人間の眠りをも妨げた。おずおずと伸ばされた指を受け入れ、抱擁を拒めなかった。夜半の淡い群青には吐き気を誘う寂寥が漂っていて、嗚咽混じりに流した涙が添えられた手を汚した。私の生徒はこの毒の海にあっても一定の色調を保ち続け、彫像のように美しかった。どの夜もそうだった。私はたった今この瞬間も、彼の黒曜石の瞳の中に、惨めに苦しがる自分を見ている。
彼は衰えの目立つ私の身体を抱き、私の知らない土地の言葉を甘い響きで口ずさむと、弛んだ皮膚のそこかしこを食み、骨の凹凸に舌を這わせ、日焼けしきれず荒れた肌を慈しむように撫でた。彼の冷えた指先を感じながら、私はまた、遠い昔に姿を消した男の事を考えている。様々な面で私を甘やかしたが、紳士的な浅いキスの先は何ひとつ与えてくれなかった。抜け出せなくなるのを恐れていたのかもしれない。自分が、ではなく、主語は弟のようにかわいがっている年下の元部下だ。単純な人肌恋しさとの境が判然としない感情に溺れることがどんな不幸を呼び込むか、あの男はきっと良く知っていた。
老いた私は与えられる快楽に耐えられず、治りかけの傷の浮く背中に爪を立てた。短い黒髪を掴み、不規則な呼吸に任せて喘ぐ。額に落とされたついばむような口づけに、抱えていたかった羞恥心が胸の奥で擦り切れた。
「ヨスタト……」
「ジル、愛してる」
「俺もだよ、レク、どこにも行かないでくれ」
「君を置いていったりしない。ここにいる、ここにいるよ」
彼は優しすぎる手つきで私の頭を撫でた。ヨスタト。私は目を閉じ、繰り返した。名前で呼ぶのもロマンチックだったが、これがわたしたちにとって、一番適切な距離感だった。もう生きているかすら分からない。多分どこかで死んだのだろう。私はそれを決して認めなかった。聞きたかった、恐れているとあれほど言い聞かせた結末をもたらしたのは何故なのかと、謝りたかった、追い詰めてしまったことを。床板の傷を守りながら、お互いに恨み言をぶつけて許しあえる日が来ると、愚かにも夢見続けている。
『置いていかれるのはきつい。だから一緒に来てくれないか。なに、第二の人生ってのはさ、意外と楽しいかもしれないぜ……』