ジルナク

 僕はイスパ教授が好きだった。僕を家に置いてくれることも、惜しみなく鳥の話をしてくれることも、蔵書や道具を自由に使わせてくれることも、いい成績を取るととびきり美味しいスミック・パイを焼いてくれることも、彼を好きな理由だった。笑いかけてくれるとき、いつも誰か別の人間を見ていることも。ある日尋ねると、それまでの僕の葛藤をよそにあっけなく全てを教えてくれた。愛していた人が居て、消えてしまって何十年経っても彼のことが忘れられない、と教授は言った。僕は過ぎていった月日の長さに驚き、またその対象が“彼”であることにも驚いた。僕は自分が同性愛者であることを他人に話せたことはない。教授は「私は彼に抱かれたかったんだろうね」とはっきり口にした。彼に必要とされていると手っ取り早く確認する方法がそれだったんだ、と教授は若く思慮の足りなかった自分を笑った。
「間違いだった。そんな風にすがりつく必要はなかったんだ。彼の人生に私は必要ではなかったし、私にとってもそうだった。そうだろう、私は彼なしでも生きてこられた」
 教授は見せびらかすように腕を広げた。それから肩を落とし、また机に肘をついて、どこか遠くを見る目になった。
「答え合わせができないのはつらいところだね。多分これが正解なんじゃないかと思うが、彼にとってイスパ・クク・ジルナクはなくした脚だったんだ。あの日を嫌でも思い出させる、そうやってずっと彼の人生に呪いをかける、決して取り戻すことのできない未来の亡霊だ。実際、私の彼に対する執着は常に、あの事件の延長にあった」
 あの事件。ジェンチリ人の僕がニレ人の教授の家に居候するにあたって、真っ先に気にかかったことだ。事件の被害者の名簿に彼の名を認めたとき、僕は不安で一杯になった。普通の人ならまだしも、当事者の心からわだかまりが消えているとは到底思えなかったから。あえて説明しなかったのだろうが、教授の運命を変えてしまった事件というのはジェンチリ人によるサンナでの自爆テロで、“彼”の名前もあの資料のどこかにあるはずだった。
 僕はその時以来、教授を愛するようになった。性的指向の問題ではなく、もっと後ろめたい理由から。彼は居なくなってしまった誰かを愛している。だから他の誰のことも愛さない。僕は誰のことも愛せない教授のことを、愛している。