国境

 俺はさっき出てきたトズナ・アスペレの、町で唯一の食料品店のしょぼくれた売り子から買ったしょぼくれたビールで祝杯をあげた。ヨスタトは浮かれきった俺の姿に呆れた様子で水を買い、ちびちびと口にしながら油断なくあたりに目を配っていた。何の祝杯かって?俺達はつい数時間前、ニレの国境をおんぼろタイヤで乗り越えて、南隣のトズノ共和国に入っていた。舗装など望むべくもない完全な田舎の脇道は、周りの鬱蒼と繁る木々の枝から、無害なトーンの鳥のさえずりをほとんど無限に投げて寄越している。俺は廃車寸前の国民車(二世代前)のフロントドアのくすんだ空色にもたれかかって、うろうろ歩き回る彼の不揃いな足が湿った土の上に刻む跡を眺めていた。この足跡じゃ特徴がありすぎてよくないな、と思った。ひとまずどこかに腰を落ち着けられたら、まともな靴が入る義足を作らせたほうがいいかもしれない。服も替えよう、地味なシャツとスラックスも捨てさせて、もっと陽気な色のを買い込むのだ。馬鹿馬鹿しい柄のセーターを着た彼の姿が現実のむっつりと水を飲む男と重なる。
 声をあげて笑いだしそうになったとき、付けっぱなしのラジオからばか笑いが流れだし、ヨスタトがこちらを向いた。眠れてないからお疲れぎみだ。引き渡し協定のない国に着くまで、あんたは悪夢ばかりの浅すぎる眠りしか味わえないんだろうな。そんな寝不足の人間に運転を任せて自分は酒なんか楽しんでいるから、俺は余程の悪人だ。意味ありげに注がれる視線に耐えかねて、全開の窓からラジオのつまみに腕を伸ばす。いっそ消してしまったほうが手っ取り早く彼を満足させられたろうが、俺はそうしなかった。なんとか周波数を合わせた先では、誰もがその名を知っている大御所の女性歌手が、熟成された豊かな歌声を披露しているところだった。
 俺は窓枠に組んだ腕を乗せ、ほろ酔いの心に音楽を染み込ませた。 もう一羽も飛んでって、誰もいなくなった。残された石はひとりぼっち、同情するよ、お前も置いてかれたのか。
 小石を踏む音がして、肩にわずかな重みを感じる。撫でるような動きのあと、ヨスタトの手のひらはゆっくりと離れていき、それと同時に、もう行くか、と短い一言が降ってくる。俺はのろのろと身を起こし、ドアを開けて助手席に潜り込んだ。
 流れていく濃緑と濡れた土の香りに、歌のタイトルにも居場所がなかった石のことを思う。はじめにふくろうが飛んでって、次に飛んでいくのははやぶさか? 違う。片足なくしたおもちゃの鳥が、歯車鳴らして飛んでいくんだ。俺は調子にのってアルコールなんか入れたことをほんの少し後悔しながら大きく何度も瞬きし、ヨスタトは何も言わずにラジオを消した。